礼拝説教要旨(2018.09.16)  秋の伝道集会U 立ち止まって 〜自分を見つめてみませんか〜
イエスに出会って
(ルカ 19:1〜10)

 「立ち止まって 〜自分を見つめてみませんか〜 」とのテーマで迎えた二年ぶりの伝道集会、昨日は「このままでは大変なことに」という題にて、主イエスの教えに耳を傾けた。題から受ける印象と聞いた話は・・・? やや期待外れ!と言われそうで、心配しながらの二日目である。でも説教者が言いたい話なのでなく、聖書の教えであり、イエスが語られたことを心に留めたい・・・との思いである。そして、今朝は、主イエスに出会って、人生の劇的な方向転換をしたザアカイに目を留めることにする。取税人ザアカイは聖書に登場する人物の中で、多分「有名人」の一人であろう。その名前を聞くと「ああ、あのザアカイ、知ってる!知ってる!! もう、その話はいい・・・」と言われそうな気もする。それでも、今回は、あえてザアカイのことに触れてみたい、とそんな思いがした。ザアカイは、そんなに悪い人ではなかったのかもしれない等々、その人となりに触れ、主イエスにお会いして、生き方を変えようと決心したザアカイの姿から、何かを学びたい・・・と願っている。

1、「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。そこには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」(1〜2節)主イエスの公の生涯はおよそ三年で、その最後は、エルサレムで十字架の死を遂げることにあった。北のガリラヤ地方から、いよいよエルサレムを目指して南に進まれ、サマリヤ地方を通過してエルサレムに近づいていた。ヨルダン川に沿って進んだ先にエリコの町があった。エリコに入ると、イエスが来られたとのうわさを聞きつけた人々が次々に集まり、イエスを取り囲んで教えを聞こうとしていた。エリコの町では、道端で物ごいをしていた盲人が、イエスに会って、目が見えるように直していただく出来事があり、イエスがどんな方であるのかを見ようと、そのうわさは広がり、ザアカイの耳にも入った。彼はそのことを聞いて、「イエスがどんな方か見ようとした。」ところが、群衆に取り囲まれたイエスを、どうしても見ることができなかった。その理由は、「背が低かったので」と記されている。聖書は、ザアカイの人となりを、「取税人のかしら」「金持ち」、そして「背が低かった」と記して、彼がどんな人生を歩んでいたのかを暗示してくれる。「群衆のために見ることができなかった」のは、彼のために、何とか手助けをしてくれる人がいなかったこと、町の人々との関係の悪さが思い浮かぶ。(3節)

2、けれども、その日、ザアカイは諦めなかった。イエスを一目見るには、高い所に登ればよい・・・と、前方にあったいちじく桑の木に登った。その下を通るイエスを、必ず見ることができる! これでよし! とばかりに。彼は、背が低いため、子どもの頃から苦労を重ねていたのかもしれない。けれども、それでめげることなく、知恵を働かせ、努力を積み重ねて働き、取税人のかしらにまでなっていたものと思われる。確かに、当時の社会で取税人は嫌われていた。不正な蓄財がまかり通り、ローマに取り入る悪人とまで思われていた。ザアカイについても、不正に不正を重ねて金持ちになっていた、と考えられている。でも、案外真面目に、そんなに不正はせずに、よく働いて金持ちになっていたのかも知れない。それでも、町の人々は、彼に対して冷ややかだったので、彼は富を得ていても、心は満たされない日々を送っていたのであろう。そのザアカイのいる木の下に、イエスはちょうど来られて、上を見上げて言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」一瞬、え・・・?「泊まることにしてあるから」と言われても、今、お会いしたばかりで、何をどうすればいいのですか・・・? と言いたかったかもしれない。それでも、彼は木から降りて、大喜びで、イエスを自分の家に迎え入れた。イエスをお迎えしたつもりであったが、自分がイエスによって受け入れられている事実が、ザアカイにとって、何にも勝る大きな喜びであった。(4〜6節)

3、この出来事を見ていた町の人々は、「『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつぶやいた。」人々は、よりによって、何でイエスは罪人の家に立ち寄るのか・・・と、ぶつぶつ文句を言った。けれども、当のザアカイは、イエスを前にして、立ち上がって、自分の決心を告げた。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」彼が心に思ったことは、イエスという方の前に、どんな隠し事もできない、一切のことは見通されている。この方の前に、自分は自分の生き方を変えなければならない、今こそ、変えていただきたい・・・であった。そして、その願いを言い表したのである。必ずしも不正に得た財産ばかりはなかったと思われる。けれども、これからは「財産の半分は貧しい人に施します」と言い、「だまし取った物は、四倍にして返します」と言った。律法で定められている以上に、「四倍にして」と言うのは、イエスにお会いしての喜びからの思いである。彼は、イエスの出会って、新しい歩み、これまでとは違った生き方をしっかりと歩み始めた。そしてイエスは言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」イエスご自身は、失われていたザアカイを捜し出して、救うためにエリコの町に来られていたのである。彼自身も、懸命にイエスを見たいと木に登っていたが、それ以上にイエスご自身が、彼に近づいておられたのである。そのことを、決して見落とすことのないように。(7〜10節)

<結び> ザアカイの人生は、イエスにお会いして一変していた。それまでは、自分が富み栄えることが中心であったが、周りの人々、特に貧しい人々に目を留めるようになった。財産の半分は貧しい人に施します・・・と。また、自分の不正について、自分を戒めるようになっている。強いられてでなく、自ら進んで「四倍にして返します」と。とにかく、イエスの前に立ち、この方は全てを見通すお方、神ご自身と分かった時、この方によって、自分の生き方を変えていたきたいと、心の底から気づいたのである。

 私たちも、今朝、そのような気づきをを与えられたいと思う。私たちの場合、聖書を通して主イエスにお会いすることになる。聖書の記事を通して、イエスがどのようなお方であり、どのように私に接して下さるのかを知るには、いろいろな形がある。自分から、何かを求めて聖書を読み、また礼拝に集って、生きる道を熱心に探す人があり、また他方、もっと緩やかに礼拝に集いながら、少しずつ心が開かれる人もある。その時に聖霊なる神が共に働いて、私たちの心に語りかけて下さる。どんな場合でも、イエスご自身は、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と仰る通り、神から離れてしまった人、そして自分一人では生き難さを抱えている人々を、捜し出して救おうとしておられる。この礼拝においても、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と、私たち一人一人に語って下さっている。その語り掛けを喜んで聞くのは誰であろうか。※ヨハネ黙示録3:20

 既に信仰を持って歩んでいる人も、今一度、主イエスを自分の心の内に、しっかりお迎えしているかどうか、いや、大喜びして主イエスと共に歩んでいるかどうか、また、イエスに出会って、自分の生き方が変わったのかどうかを点検し、吟味することは大事である。自分中心なのか、周りの人のこと、特に貧しい人への心遣いはどうか、自分の不正について、厳しい目を向けているかどうか、ザアカイに習いたいと思う。

 信仰に進むかどうか、まだよく分らないという人もおられると思う。その方は、ザアカイという人のことを覚えていただきたい。彼はイエスの前で、この方は、心の中まで、自分の全てを知っておられると気づいたのである。私たちも、神がおられ、その神によって全て知られていると分かると、この方の前にひれ伏すことができる。全知にして、全能なる神がおられると分かると、私たちも、この方に知られて生きる幸いを見出すことができる。ぜひ、神を信じ、イエス・キリストと共に歩む一歩を、踏み出すことができますように。