礼拝説教要旨(2018.07.29)
安息を用意される神
(創世記2:1-3)  説教者:横田 俊樹

序)聖書の一番最初の書、創世記を最初から順番に学んでいる。1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」から始まる天地創造の御業を6回にわたって見てきた。1日目、神様はまず最初に、光を造られ、そして光と闇とを区別された。2日目、大空を造られ、3日目、陸と海とを分け、さらに陸に植物を生えさせた。茶色い世界は緑に覆われ、あるいは色とりどりの花や果実をもって飾られ、カラフルな世界となった。4日目、太陽、月、星を造られ、5日目、水生生物と空の鳥。カラフルだけれども沈黙の世界、音だけの世界だったところに、小鳥のさえずりが聞こえ、歌が聞こえ、また動きが出てきて、世界はにぎやかに、楽しくなってきた。6日目、地上の動物、家畜、虫の類と、そして人間を造られた。特に、人間は神のかたちに、神に似せて造られた、神の至宝ともいうべき存在であり、神の創造の御業のクライマックスであった。

@本文解説:七日目に休むというパターンに注目。
 1節「こうして天と地とそのすべての万象が完成された。」人間の創造をもって、造られるべきものはすべて造られた。完成した。この後、つけたすものは何もない。そして2節、3節と、神は七日目に休まれたという事が繰り返されている。この日は、休む事に意味があるようである。もちろんこれは、神ご自身が、やれやれ、あー疲れた、と休む必要があったという事ではない。神は無限の力をお持ちで疲れる事がないので、休む必要がない。これは、神が創造の御業を終えられて七日目に休まれたという、このパターンが強調されているのだと思われる。
 そして神は、この七日目を祝福し、聖とされた。この休まれた日を特別な日とされたのである。

Aこのパターンにならって休めと命じられる神
 のちにイスラエルがエジプトから出て約束の地に行く途中、有名なモーセの十戒と呼ばれる十の戒めが神から与えられた。その第四戒は、出エジプト記20:8-11にある。

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

 「安息日」は、この創世記で「休まれた」と訳されているのと同じ言葉から来ている語。ここで、神様ご自身が六日間で世界のすべてを造り、七日目に休まれたというこのパターンにならって、あなたがたも仕事から離れて休みなさい、と命じられた。働け、働け、もっと働け!と命じたのではなく、「休め!」と命じられる神。ほっとくと月月火水木金金と休みなしに仕事に没頭し、いのちを削りかねない人間に、命じてでも休ませようとされる神である。しかも当時、まともな人権などなかった奴隷にも休みを与えよと心を配られる神。いやそれどころか、家畜にまで休みを与えよ、と心をとめられる神である。
 休むという事は、特に日本ではいまだに、軽視されがちかもしれない。休む事と怠惰とは違う。休むというのは、いのちの回復という事である。休みの軽視はいのちの軽視である。だからこそ、いのちを尊ばれ、喜ばれ、大切にされる神は、当の人間以上にこの休みの日を大切にせよと「命じて」おられるのである。

B肉体と魂の休みの必要
 ところで、人間には肉体と霊魂がある。肉体が休んでいても、心が安まらなければ本当の意味で安息にならない。その意味で、仕事から離れるだけでなく、いのちの源であられる神とともにいる事が必要である。神の御前に出て、神の御業を思い、感謝をささげ、賛美を捧げ、御言葉に耳を傾ける。また同じ御霊を頂いているキリストの体なる兄弟姉妹との交わりを通しても、神は私たちの心に触れてくださる。そんなふうにこの休みの日を祝福し、聖としておられるのだろう。
 企業戦士として長年働いてこられた方のあかし。
「60年の間、キリスト教から離れるチャンスはいつでもありましたが、離れませんでした。一週間のあいだに、自分の心が虚ろになるのがわかります、自分の心が乱れ、乱暴になるのがわかる、理不尽なことに心がふさがれることもある。礼拝での聖書や説教は、いつもこれらに的確に答えてくれるというわけではありません。書かれ、語られていることは、現実の社会や課題とはかけ離れた別の世界のことのように思える時も少なくありません。
 しかし自分の生命が出てきたところ、自分のルーツとなる方、その「方」の語りかけに耳を傾け、そこから、今ここにいる自分を再発見し、自分の立ち位置を再確認する時なのです。
 礼拝や祈りや、賛美は、今の自分を「無」にして終わるのではないし、過去の忌まわしい記憶や将来への不安から逃れるためのものでもありません。「無」になって終わるのではなく、すべてを満たす「有」が心を満たしてくれるのです。そしていわば現実とは異なる世界の価値観、すなわち、愛や融和、善なること、聖なること、謙虚になること、人に仕えることの尊さなどの良いコンセプトが心にしみこみ、それらを実行する力が心にあふれてきます。それは多くの場合、問題解決の糸口になり、あるいは他者への説得力ともなります。このように、教会はすべての人の心をよいもので満たしてくれるのです。

聖書には次のように書いてあります。
「教会はいっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです(エペソ1章23節)」。

C神は究極の安息を用意しておられる
 最後に、六日の労働の後、七日目に安息を用意してねぎらってくださる神は、私たちの地上の生涯の後にも究極の安息を用意してくださっておられる。六日間の労苦に対する安息があるように、生涯にわたる労苦に対する安息を、神は用意しておられるのである。天地創造から始まった歴史のゴールにおいて、神様が用意しておられる神の国を、キリストを信じて罪赦された者たちは、受け継がせて頂ける。その時の情景が黙示録21:3−4に。

「…見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 何度も言っているが、神が目の涙をすっかり拭い取ってくださるというのは、ただハンカチか何かで拭うという事ではなく、涙の原因そのもの、悲しみ、嘆き、痛み、そういったものをいっさい取り除いてくださるという事である。その時にはやせ我慢や強がりではなく、またそれらの感情を歯を食いしばって無理矢理抑えつけてでもなく、心の底から納得して、完全に癒やされて、神をほめたたえるようになるのである。そうでなければ、本当の安息ではない。神が与えられるのは、神が用意しておられるのは、本当の、本物の安息である。私たちをいのちで満たし、喜びで満たし、賛美で満たし、それらのものは尽きる事がない。
 そしてその永遠の安息を楽しみにして首を長くして待っておられるのは、ほかならぬ神ご自身であられる。私たちを愛し、私たちとその永遠の御国でともに住むために、御子イエス・キリストをさえ、与えてくださったのだから。

結び:ちなみに、安息日はキリストの復活までは週の七日目であったが、キリストの復活の後は、週の初めの日となったと、ウェストミンスター信仰告白では教えている(第21章7)。キリストを信じるすべての人の復活の初穂として復活されたイエス・キリスト。初穂とは、後に続く収穫を保証するものである。復活のいのちにあずかった者として、その希望を確かめ、その希望に生きる者であることを確かめる日としても、この日を覚えたい。週の初めごとにキリストにある新しいいのちを確かめ、髪の子どもとされている事を喜び、小手をかざしてゴールを仰ぎ見つつ、また新しい一回りの旅路に歩み出す。それを繰り返しつつ、それぞれ置かれた場所で与えられた役割を果たさせていただき、永遠の安息に入らせて頂く者でありたい。