礼拝説教要旨(2018.08.05)
キリストによる罪のゆるし =ハイデルベルク信仰問答:56=
(ヨハネ 3:16〜21)

『第二部 人間の救いについて:聖霊なる神について     第21主日の3
問56 「罪のゆるし」について、あなたは何を信じていますか。
答  神が、キリストの償いのゆえに、
    わたしのすべての罪と、
    さらにわたしが生涯戦わなければならない罪の性質をも、
    もはや覚えようとはなさらず、
   それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、
    わたしがもはや決して
    裁きにあうことのないようにしてくださる、
    ということです。

 「聖なる公同の教会」「聖徒の交わり」に続く、「罪のゆるし」は、父なる神が、御子イエス・キリストによって、私たちに与えて下さる、恵みによる救いの根幹、そのものである。「キリストのからだである教会」へと召し集められた私たちは、神に背いた罪のゆえに、滅びへと向かうだけであったが、キリストの十字架の御業によって、罪を赦されるという、途方もない救いに入れられた。神との親しい交わりを回復させられ、もはや滅びることのない、「永遠の命」へと移されたのである。「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」については、その意味するところが、「一つの群れ」としての教会についてであり、教会は「共同体」であることにあった。それに続くのは、群れを構成する一人一人について、その人々は罪を赦された者たちであることを再確認する問答である。教会が教会として立つこと難しくさせるのは、この「罪のゆるし」を誤解したり、理解が深まらないためである。「罪のゆるし」について、より正しく理解したいと願う。今朝、洗礼式を迎える礼拝にて、丁度「罪のゆるし」を心に留めるのは、やはり、主のご計画の内にあると確信させられる。

1、私たち人間の罪、神に背き、神なしでも生きられるとする罪の事実は、人間だけに止まらず、この世界のあらゆる事柄に波及している。人間の尊厳は損なわれ、自然界の秩序も乱れ、悪がはびこり、不条理が日常的に襲い来る、そんな世情が溢れていると実感する。最早、歯止めはなくなってしまったのであろうか。神は、かつて、そんな地上をご覧になり、大洪水によって地を滅ぼされた。その時神は、ノアとその家族には箱船を備え、彼らを助けられた。神を信じて、神に従う者を、必ず神が救って下さることを、事実として示しておられた。この出来事は、神は必ず罪を裁く方であるが、罪を認めて、神の前に悔い改め、心を低くする者には、罪のゆるしを与え、滅びから命に移すという、神の救いがあることを明らかにしている。神はその後、再び大洪水によって地を滅ぼされることはなく、イエス・キリストの十字架の身代わりの死を信じる信仰によって、「罪のゆるし」が与えられることを、旧約聖書の預言によって示され、十字架の死と、死からの復活によって、一層、この救いの確かさを世に明らかにされた。キリストの十字架の死によって、罪の代価は支払われ、キリストを信じる者の罪はゆるされ、キリストにあって聖なる者とされ、神の前に義なる者と認められるという、確かな救いの道が備えられているのである。

2、イエス・キリストの十字架の死、それが私の身代わりの死であったと信じることによる「罪のゆるし」は完全で、しかも完璧であると、問答56は明らかにしてくれる。問56「『罪のゆるし』について、あなたは何を信じていますか。」答「神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです。」神の御子、イエス・キリストは罪のないお方であったにも拘らず、罪ある者の罪を背負って十字架で死なれた。正しく「キリストの償い」によって、キリストを信じる私の、全ての罪はゆるされたのである。これまで犯した「すべての罪」ばかりか、生涯に渡って戦い続けなければならい「罪深い性質」、また、将来に渡って犯すであろう「罪」も含めての、完全無欠の「罪のゆるし」である。キリストを信じて「罪のゆるし」をいただくとは、神が私たちの罪を、キリストの義のゆえに、全く忘れ去って下さるということである。

3、最早私たちは、「決して裁きにあうことがない」と、心からの安心と平安をいただくことができる。生涯に渡って罪との戦いがあって、心が騒ぐことがあっても、自分を責めたり、人から責められて嘆くことは、全くしなくてもよいことである。私のために十字架で死なれたキリストがおられると、安心してよい。いや、安心すべきである。(詩篇103:1-5、ミカ7:18-19) 神が御子を遣わして下さったのは、御子を信じる私たちが、決して滅びることのないように、御子を信じて「罪のゆるし」をいただき、「永遠のいのち」を持つよう、救いの道を開くためであった。罪に堕ちて、ただ罪に走るばかりの私たちを裁くためではなく、「御子によって世が救われるため」であった。世の多く人々が、決して御子を信じようとしない事実があり、他方、私たちは、御子を信じる信仰へと導かれた。ここに、私たちの信仰の不思議がある。聖霊なる神が私たちの心を、確かに照らし、私たちを御子イエス・キリストの元へと、導いて下さったからである。自分からは光へと向かうことのない者が、神にあって立ち上がり、御子の元へと進み出ることができたのである。(16〜21節)

<結び> 「罪のゆるし」、すなわち、到底赦されるはずのない「罪のゆるし」を受けた幸いを心に留めたい。(コリント第二5:21)そのような救いに与ったことを喜び、心から感謝する人々が集まっている教会が、「聖なる共同の教会」であり、「聖徒の交わり」と言われる「キリストのからだなる教会」である。私たちは、自分が「罪のゆるし」を受けた者、すなわち、キリストの血潮を代価として買い取られた者と自覚したい。そして、自分だけでなく、共に過ごす兄弟たち姉妹たちは皆、神が愛して、御子の血潮によって救い出された尊い一人一人であると、心の底から覚え合うことの大事さを覚えたい。神の御子の命は、誰も肩代わりできない高価なものである。けれども、父なる神は、それを代価として支払われた。かくして「罪のゆるし」がもたらされた。その救いを根拠とする時、私たちは、互いに赦し合う交わりを喜ぶことができる。神の愛を受け、「罪のゆるし」をいただいた者として、神を愛し、人を愛することができる者とならせていただいている。教会が教会として証しを立てることができるようにと、祈りを積みあげ、私たちは、心を低くして歩ませていただきたいと願うばかりである。

 今朝、洗礼式に当り、「罪のゆるし」「キリストによる罪のゆるし」こそが、私たちの信仰の原点、根拠の一つであって、私たちは皆、自分の罪を、キリストの十字架の身代わりによって、すっかり拭い去られた者であることを、心から感謝するよう導かれたい。私たちは、最早裁かれないと安心するとともに、互いに愛し合い、受け入れ合うことが導かるよう祈りたい。そして、この救いに招かれ、救いに入れられる方が増し加えられるよう、祈りを篤くしたい。