礼拝説教要旨(2018.07.22)
聖徒の交わり =ハイデルベルク信仰問答= 問答:55
(ピリピ 2:1〜11)

『第二部 人間の救いについて:聖霊なる神について     第21主日の2
問55 「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。
答  第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、
    主キリストとこの方のあらゆる富と賜物に
    あずかっている、ということ。
   第二に、各自は自分の賜物を、
    他の部分の益と救いとのために、
    自発的に喜んで用いる責任があることを
    わきまえなければならない、ということです。

 「我は聖霊を信ず」に続く、「聖なる公同の教会」「聖徒の交わり」「罪のゆるし」「身体のよみがえり」「永遠の命」は、聖霊に導かれた私たちが、その一つ一つを信じますと、心からの思いを込めるべき事柄である。神ご自身が、キリストにあって一つの群れとして選んで下さり、世の初めから世の終わりまで、これを守り導いて下さる「聖なる公同の教会」に、私たちも迎え入れられているとは何と幸いなことであろう。その教会は、「聖徒の交わり」と言われる。ところが、「聖徒の交わり」について、私たちは、何か誤解をしているかもしれない。今朝、私たちは「交わり」の意味を、正しく捉え直してみたい。

1、教会を「聖なる公同の教会」と言う時、教会の「聖さ」の根源、また根拠は、あくまでも、教会のかしらキリストご自身の「聖さ」にある。御子イエス・キリストが私たちを選び、御自分の御霊を御言葉によって、群れを一つの信仰へと導き、「聖なる公同の教会」として歩ませて下さる。「教会」は、キリストご自身が生きて働かれ、この方が私たち一人一人と共に歩まれ、時には、確かな後ろ盾となって下さるので、「聖さ」の完成に向かって歩み続けることができる。教会は、この地上にあっては、未完成で、不完全な者たちの集まりゆえに、しばしば互いに衝突し、痛みを経験する。決して、「聖人」となった人々の集まりではないからである。そうではないにも拘らず、使徒信条で、教会は「聖徒の交わり」である、と言う。そこに集められた私たちは、地上ではなお「聖」とは言えずとも、召して下さった方、御子ご自身が「聖」であられるので、御子の血潮によって、私たちも「聖なる者」とされた、この罪の赦しの確かさ、不思議さによるのである。すなわち、キリストの教会が「聖徒の交わり」と言われる根拠は、キリストによって罪を赦され、「聖」とされた者たちの「群れ」、「共同体」であるという意味である。使徒パウロは、教会は「共同体」であることを、何とか理解するようにと、「キリストのからだなる教会」と言い続けたのである。

2、「聖徒の交わり」と言うことによって、教会はキリストにあって一つのからだとされた人々の「群れ」、「共同体」であることが言い表されている。そこに連なる一人一人は皆、「群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている。」キリストにある者は、誰一人として除外されることなく、教会の一員である。それゆえに、皆が「あらゆる富と賜物にあずかっている」事実こそ、覚えなければならない。キリストの命の豊かさに与り、またあらゆる恵みが例外なく注がれていること忘れてはならない。と共に、与えられたあらゆる富と賜物を、「他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない」と言われている。この視点を大事にしなければならない。「聖徒の交わり」において、一人一人が、自分に与えられた賜物を、他の人々の益と救いのために、「自発的に喜んで用いる責任」をどのように果たすのか、この務めを理解することが大事となる。それぞれが、主イエス・キリストを信じて、この方に倣って生きる時、何を大事にし、何を目指しているのか、何を喜びとし、誰に喜んでいただきたいのか、私たちが生きる上で、何を第一にしているのかが問われる。御子の十字架によって、罪の赦しを与えられたことを喜び、また教会の交わりの中に入れられていることを感謝し、この「聖徒の交わり」の中で、他の人の益と救いのために、自発的に、喜んで仕える者となることを、聖霊に導かれて果たす者となる、これが私たちに課せられた務めである。

3、使徒パウロの言葉に耳を傾けたい。「・・・あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(1〜5節)教会に召し集められているのは、御子が御自身の血潮を流して買い取られた、尊い一人一人、神が御子によって滅びから命へと移された一人一人である。この世では愚かで、取るに足りない者かもしれない。でも神は、私たちを選んで下さった。御子イエス・キリストは、私たちを救うために十字架の死を忍ばれたのである。パウロは、このキリストの十字架を見上げるように、そして、そのキリストに倣って、仕える者となるようにと、私たちにも教えている。(6〜8節)私たちが、十字架のイエス・キリストを見上げるなら、そして「イエス・キリストは主である」と、心からの信仰を言い表す人が増し加えられるなら、神はそのことを大喜びされる。教会が教会として歩み、「聖徒の交わり」として歩み続けるなら、その時、主の御名に栄光が帰されるのである。(9〜11節)※マタイ20:25-28

<結び> 「聖徒の交わり」について誤解し易いこと、それは、「交わり」という言葉を日本語で理解する時、人と人との「交わり」、すなわち、友好関係のように考えてしまうことにある。礼拝における神との「交わり」があってこそ、信徒一人一人の互いの「交わり」のあることより、礼拝後や、礼拝以外のところでの互いの「交わり」を、「聖徒の交わり」と思ってしまう。そのために「この教会は冷たい」とか、極端に「この教会には愛がない」などと言われると、たちまち大騒ぎになるという事例が、よくあることと言われる。「交わり」を生かすも、無にするのも、その責任は信徒である私たち一人一人の手にあると、実は思い違いをしているからである。私たちの責任は、キリストのからだである教会が、キリストにあって揺るがない「共同体」として存在していることを知ることにある。御子イエス・キリストの十字架の血潮によって、罪を赦された者が、分け隔てなく召し集められているのが教会である。その教会にあって、一人一人は、互いに他の人の救いと益のために存在していること、そして、自分に与えられている賜物を、「聖徒の交わり」のため、自発的に喜んで用いることをわきまえることにある。そのような「聖徒の交わり」を通して、主の御名にのみ、栄光を帰すことが導かれるよう祈ること、それが私たちに求められている務めである。