礼拝説教要旨(2018.07.15)
聖なる公同の教会 =ハイデルベルク信仰問答= 問答:54
(エペソ 1:3〜14)

『第二部 人間の救いについて:聖霊なる神について     第21主日の1
問54 「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。
答  神の御子が、全人類の中から、
    御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、
    御自分の御霊と御言葉とにより、
    まことの信仰の一致において、
    世の初めから終わりまで
    集め、守り、保たれる、ということ。
   そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、
    永遠にそうあり続ける、ということです。

 天と地を造られた真の神は「ただひとり」、そして、その神は「三位一体の神である」と私たちは信じている。ハイデルベルク信仰問答は、問答53によって、「聖霊なる神について」、何を、どのように信じているかに触れ、聖霊なる神こそが、私たちをキリストの恵みに与らせ、私たちを慰め、永遠に私たちと共におられると教えてくれる。更に問答54以下、聖霊なる神の働きと関わること、教会について、聖徒の交わりについて、身体のよみがえり、永遠の命などに触れ、私たちが自分の救いを、一体どのように理解したらよいのか、大切な教えが問答64まで続く。信仰の大切な理解を、いっそう深められるように。

1、問54「『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信じていますか。」答「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。」ここで触れられていることは、神の御子が、「全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」があり、それが「聖なる公同の教会」であるということ、その教会を、御子は「御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで」、確かに集め、守り、保っておられる、というのである。たった一つの、真正にして、揺らぐことのない教会が、世の初めより存在していること、そして、世の終わりまで、その教会は集められ、守られ、保たれる。御子ご自身が御霊を注ぎ、御言葉を与え、「まことの信仰の一致」を与えることによって、キリストの教会は、いつでも、どこででも、「聖なる公同の教会」として、その存在を許され、神の栄光を現すよう、世に送り出されているのである。(3〜14節)※3、6、12、14節

2、「聖なる公同の教会」と言われると、しかも、その教会は「永遠の命へと選ばれた一つの群れ」と言われるなら、私たち人間一般の感覚では、教会とは、いかにも「聖」にして、「公同」で「普遍性」のあるもの、「選ばれた一つの群れ」という、誇らしげなものと錯覚するかもしれない。「教会」は建物ではなく、そこに招かれ、集められた「一つの群れ」であるので、群れに属する一人一人こそが大事としても、「選ばれた」のは、幾らかでも優れたところがあったから・・・と、そんな思い込みをし易い私たちである。けれども、私たちが救いに入れられたのは、全くの恵みによることであり、信仰によることで、私たちに何らの良きものがあったわけではない。この事実をいささかも見失ってはならない。自分の罪深さや醜さに苦悩していた時、イエス・キリストの十字架の御業を知り、十字架のみ元に荷を降ろしたのである。それこそ、誰をも隔てず、誰をも妨げることなく、全ての人に手を差し伸べておられる主イエスが、私たちを招いて下さっていたからである。私たちは罪に汚れていても、ただ一人、真に「聖」であられるイエス・キリストが、あらゆる人々を招いておられ、「聖なる公同の教会」に私たちを入れて下さったのである。私たちは、決して思い違いすることのないように。(エペソ2:8-10)

3、教会の公同性、また普遍性は、主イエスご自身が御霊と御言葉によって、あらゆる人々を、時代や国、また場所を超えて、御自分の民として招き、一つの群れとして集めて下さっている事実にある。大人も子どもも、男も女も、老いも若きも、教会においては、一つの群れとなるよう招かれている。パウロは、ガラテヤの教会に次のように書き送った。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神に子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスのあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28、※コリント第一1:26-29)ところが私たち人間の側では、地上にあって集団を形成する時、厄介な課題が圧し掛かる。それは均質化した群れを好むことにある。おおよそこの世にある団体は、ほとんど必ず、特定の目的のもとに、その目的に賛同する人々によって構成される。それと比べると、教会は、神ご自身が、御自分の御計画に従って、私たちを選び、御自分の民として、一つの群れとして集めて下さっている。そこには大人も子どもも、男も女も招かれ、この世の地位や身分とは無関係に、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、一つとされるのである。互いに愛し合い、支え合い、赦し合う交わりを喜ぶように、私たちは罪を赦され、滅びから命へと移された。そのため、この地上にある教会はみな、様々な弱さのゆえの課題があり、天の御国の救いの完成までは、いつも大きな痛みや苦しみに遭いつつ、望みを抱いて、前に向かって進むのである。私たちの教会も、今正に、「聖なる公同の教会」として、完成に向かう「途上」にあるということになる。

<結び> 確かに私たちは、地上で、自分が所属する教会を選ぶことができる。自分が属する教会が、御言葉に従って正しく歩むよう祈り、互いに心配りをすることはとても大事である。ところが、時に、私たち自身の願いや思いが強くなって、神ご自身が、御子の十字架の血潮によって、私たちを滅びから命に移して下さった、その救いの恵みを見失うことが、教会の歴史において繰り返されて来た。初代教会、紀元一世紀の教会において、その事実は衝撃的である。ハイデルベルク信仰問答は、16世紀のプロテスタント宗教改革以後の教会において、教会が教会であるために、何を信じ、何を実行するのか、真剣な問いに答えるものである。私たち自身も、自らを省み、御言葉に耳を傾け、「聖なる公同の教会」を信じて、天の御国を目指したいと心から願う。

 問答54の最後は、「そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです」と締めくくられる。教会がどんなに素晴らしいものと理解したとしても、罪に汚れた私たちが、その罪を赦されて、その群れの一員とされている事実を、この上ない幸い、また喜びであると、感謝に溢れることがなければ、私たちの信仰は全く意味をなさない。主イエス・キリストが生きて働いておられる「聖なる公同の教会」を信じ、この教会の中で、私たちの信仰が養われること、これこそが私たちの願いである。私たちを滅びから命へと救い、教会に召し集め、守り、保って下さる主、イエス・キリストこそ称えられるべきお方だからである。