礼拝説教要旨(2018.07.08)
回復する至宝
 (創世記1:26-28) 説教者:横田 俊樹

今回は先回取り上げた「神のかたち」について、とても大切なテーマなのでもう一度扱いたい。

@神の至宝である人間。前回、神様は人間をどれほど尊いものとして造られたか、どれほど愛されているものとして造られたかを見た。神様は人間を、ほかのものをすべて整えてから最後にお造りになった。それもなんとご自身のかたちに、ご自身に似せてお造りになったという。人間はまさに神の至宝であった。イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とある通りである。ダイヤモンドかルビーかサファイアかエメラルドか。聖書にはこれらの宝石が、神の民が高価で尊い、価値ある者である事を象徴するものとして記されている。私たち一人一人は造り主なる神の目にはそのように写っているのである。自分では自分をどう思っていようと。信仰とは、神の御言葉を信じることである。自分の感覚や目に見える現実はとてもそのようには思えない状況の中でも、それらよりも、神の御言葉を信じるのが信仰である。(百歳になって子どもを与えられたアブラハムがその良い例。)現実の状況がいい方向に変わったら、愛されていると思えるというのなら、それほど信仰はいらないかもしれない。そうでない中で信じるからこそ、信仰なのだ。そう信じるためには聖霊の助けが必要である。そしてまず信じることによって自分自身が変えられ、それから周りの現実が変わってくる。その順番を間違わないようにしたい。セルフイメージが低いと言われる日本人は特にこのイザヤ書のような御言葉を信じる信仰によって生きるものでありたい。

A至宝たるゆえん。ところで、人間が神のかたちに、神に似せて造られたとは、具体的に人間のどの点を指すのか、それは知識と義と聖という点にあると前回言った。

知識:人間には理性が与えられていて、物事を観察し、思い巡らし、理解する事ができる。物事を分析し、因果関係を理解し、論理を組み立てる事ができる。(そこに科学技術の進歩が可能となる。)それらすべては、神への賛美に至るために与えられている。神が造られた自然を見、その神秘や特に生き物の構造や仕組みが明らかになるにつれて、ますますそこに込められている神の慈愛と知恵の素晴らしさに感動する。神は知恵をもって世界を造るのを喜び、楽しんでおられた(箴言8:22-31)。人間の自然界の探求は、そこに隠されている神の知恵を発見し、感動して、神への賛美に至るものである。すべての知識は最終的には神を知る知識、神の栄光に至る知識である。
 また、人間は肉体的にはライオンや象などの動物よりも弱いが、これらを従えることができるのは知識による。それらの動物の性質を知り、また道具を発明し、利用する事で、自分よりも強い動物をも従えるのである。知識は力である。ただしその知識を、良い事のために、人々の益となる方向にこそ、用いなければならない。松下幸之助「…お互い人間が万物の王者たるの自覚をもっていっさいのものをあるがままに認め、適切な処遇を行ってこれらをともどもに生かしていくところに、人間の偉大な本質というものが実際に発揮されていく…」(PHP文庫「素直な心になるために」p19)神のかたちに造られた人間に、神は「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(28節)と仰っていた事と通じるものがあるのではないか。
 
義:人間には良心というものがある。それも思っている以上にしっかりと心の奥深くに組み込まれている。CSルイスという人は、「キリスト教の精髄」という本の中で興味深い指摘をしている。私たちは、たとえば嘘をついたり、約束の時間に遅れたりなどした時に、反射的に言い訳をする。それは必ずしも相手に対してではなくて、誰に言うのでもなく、自分自身の心の中で、あの時はああだったから仕方がなかった、みんなやっている事だ、などと言い訳をつぶやく。それが正しい理由かただの言い逃れかは今は問題にしない。彼が指摘しているのは、うそをついたり遅れたりした時に、言い訳をしなきゃとか考える間もなく、もう本能のように反射的に、心の中で理由を言って自分の良心をなだめようとするという、この事実(あるいは習性)である。良心というのはそれほど人間の心の奥深くにしっかりと組み込まれているのである。
罪を犯してしまったとき、私たちの心はチクリと痛む。良心の呵責というものがある。この良心は、単なる言い訳には満足しない。なかなか手強い相手である。だが、これこそが、神のかたちを構成する一部なのである。人間の人間たるゆえん、神の至宝の至宝たるゆえんなのである。私たちはこれを尊ばなければいけない。
 罪を犯さない人は一人もいない。私たちもそうである。だが、私たちには、この良心を完全に満足させるお方が与えられている。私たちの罪のために身代わりに十字架にかかってくださった御子イエス・キリストである。私たちの罪に対する刑罰はすべてキリストが身代わりに受けてくださった。私たちの罪に対する正義はすでに貫かれたのだから、私たちはもはや自分を正当化しようと苦しい言い訳をする必要はまったくない。だからこそ、ありのままの自分を認めて、罪を告白し、悔い改めることができるのである。その時、私たちの良心は曇るのではなくて輝きを増すのだろう。
 良心のおかげで、人間社会は成り立っているといっても過言ではない。人の心から良心というものがなくなったら、人間社会は動物の世界よりも悪いものにー悪魔的なものにー成り下がってしまうだろう。
 
聖:「聖」とは元来、神様のために世から取り分けられた、分離されたという意味を持つ語である。世に氾濫している不品行、姦淫、情欲、むさぼり、貪欲のような汚れから、神に属する聖なるものとしてきよい心を持つようにと、キリスト者は言われている。Tペテロ1:15-16「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」

B損なわれた至宝。ところでこんな疑問も出てくると思う。神様は人間を神のかたちに、神に似せて造ったのなら、どうして現実の世界は悲惨に満ちているのか。確かにそうである。それに対する回答は、聖書によると、人間が神の前に罪を犯し、堕落して、罪の性質を宿す者になってしまったからである。堕落した人間のうちに働く罪の力により、本来与えられていた造り主の似姿が大きく損なわれてしまったのである。たとえば、私たちは身近な人を愛することすらできない事があるのではないか。愛したいと願いながらもそれと正反対のことをしてしまったり…。それはまさしく善を願う私たちの内にさえ、罪の力が働いているのである。この罪の力が、本来の神のかたちをゆがめてしまうのである。
 せっかく神様によって至宝として造られたのに、罪のゆえに輝きは失せ、ひびが入り、ゆがんでしまった。これを一番悲しんでおられるのは神様である。
 
C回復する至宝。しかし神様は、傷ついた至宝を回復される。輝きを取り戻させる。大事に大事にしていた宝物が壊れて悲しんだけれども、修復し、再び輝きを取り戻して、これを前にも増して喜ばれる方である。キリストによる救いは、ただ単に私たちが罪赦されて、天国行き、永遠のいのちにあずかった、というだけではなく、壊れていた神のかたちをも回復させるものなのである。神の救いは中途半端ではない。至宝を至宝として回復させずにはおかないのである。
 どのようにして回復するのか。コリント人への手紙第二3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」鏡が、前にいる人の姿を写すように、私たちも、主の方に顔を向けるなら、主の姿を写す鏡のようなもの。主を見上げて、主を見つめて、心に主のお姿を写して、一歩一歩主にならって歩むときに、私たちは主と同じかたちに姿を変えられていくという。これは、キリストを信じるすべての人の内に住んでおられる御霊なる主のお働きである。私たちの内には御霊が住んでおられる。この御霊の促し、また助けによって、イエス様にならう歩みをするのである。御霊の働きに反するのが肉の性質であり、罪の性質である。クリスチャンになってもこれらの力は残存する。そこで御霊と肉との間で戦いがある。肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうのである。この戦いにおいて、私たちは時に敗北を喫する事もある。しかしそれでもあきらめないのである。私たちはキリストの十字架の故に、完全な罪の赦しを受けているのだから、何度でも立ち上がる事ができる。そうして少しずつ、一歩ずつ、肉を退けて御霊に従う道を選び取る事ができるようにされるのである。そして一つずつでも、私たちが肉に従わずに御霊に従う方を選び取る時、至宝としての輝きが一つ、増すのである。それを神様はどれほど喜ばれることか。