礼拝説教要旨(2018.07.01) =宣教礼拝=
すべての人が救われて
(テモテ第一 2:1〜7)

 日本長老教会は、毎年7月の第一週を「世界宣教週間」と定め、全世界に福音を宣べ伝える働きのために祈り、また働き人を覚えて礼拝をささげている。何らかの企画を立てて「宣教礼拝」とする教会もあれば、特別のことはなしに「宣教礼拝」とする教会もある。所沢聖書教会は、今年も後者であるが、宣教師として海外に遣わされている方がおられ、またこれから遣わされようと準備しておられる方がいること、また海外からの宣教師方の働きによって、福音に触れた人が多いこと等を覚えて、今朝の御言葉に耳を傾けたい。福音宣教の業は多岐に渡り、代々の教会は、何とかして主イエスが命じられたことを実行しようと心を砕いている。私たちも、何とかして、多くの人々に福音を届けたいと願っている。そのような宣教の働きを覚えながら、主なる神ご自身のみ心に触れることができれば・・・と願っている。

1、十字架で死なれたイエスを、救い主キリストと信じるなんて、どんなことがあっても受け入れられず、死人のよみがえりなど、いかがわしい教えを広めてはならないと、キリストを信じる弟子たちを迫害したパウロであった。そのパウロに主イエスご自身が現れ、声をかけて下さった時から、パウロはイエス・キリストのために生きる者、キリストに仕え、キリストのために生涯をささげる者に生まれ変わったのであった。そのような自分を振り返りながら、福音宣教の務めを、これからは若い伝道者テモテに託そうと、そんな思いを込めて書かれたのがこの手紙である。宣教の業には、必ずのように困難、また苦難がつきまとうことが予想されていた。困難に打ちのめされないように、「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです」と励ましを加えながら、先ず、このことを勧めます・・・と語った。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1節)当時、テモテはエペソの町の教会で、牧師としての務めを果たしていた。福音を宣べ伝えるに当って、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人のために願い・・・」と、祈りの尊さを勧めたのであった。

2、「願い、祈り、とりなし、感謝」と、祈りには、多様な側面のあることを示して、願望だけに止まらない、とりなしや感謝を込めての祈りを、他の人のため、王や高い地位にある人のためにささげるよう勧めた。何のためなのか。「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(2節)キリストの弟子たち、すなわち教会に属する人々は、当時の社会において、まだまだ少数派であった。何をするにも、周りは圧倒的に異教徒たちであって、ローマ帝国が支配する中で、ユダヤ人たちからの敵対もあり、心安まることがなかなかない、そんな時代であった。そのような時こそ、神に祈り、神が全てを支配しておられることを認め、神が生きて働いて下さるのを願うことが、何にもまして必要であった。私たち人間は、案外、この世で狼狽えてばかりかもしれない。どんなに有能で、力があっても、不完全さを補い切れる人はいない。神を仰ぎ、神に祈り、神からの平安をいただいて日々を過ごすことがなければ、たちまちに行き詰まるに違いない。神に願い、祈り、他の人のためにとりなし、神に感謝をささげるのは、私たち、主イエスをキリストと信じる者の尊い務めであり、特権であり、力の源なのである。

3、「そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(3〜4節)福音を宣べ伝えるに当って、この社会が安定していることの大事さがある。平穏すぎると、人の心が鈍るのも事実であるが、不穏な状態が続くのを、神ご自身は良しとしてはおられない。人々の心が穏やかで、社会を治める立場の人が、十分にその務めを果たすには、徒な争いを避け、人々が互いに手を差し伸べ合うことができるかどうか、それはとても大事である。そのような安定した社会でこそ、福音宣教の業は前進を見ることができる。神が望んでおられるのは、すべての人が救われることであり、神との親しい交わりを通して、真理を知るようになること、この「真理を知る」人が増し加えられることである。言い換えれば、昔も今も、世の人々は真理から遠ざけられ、真理ならざる「偽り」に心を縛られ、滅びへの道を、ひたすら突き進んでいるからである。最初の人アダムにおいて神に背き、その時以来、全人類は神に敵対したままである。自分からは、神に立ち返ることはできないでいる。けれども、神は、御子イエス・キリストを遣わし、十字架の死を遂げさせ、罪の代価を支払って、御子を信じる者を救おうとされた。この救いに与る人が起こされるために、教会は祈りをささげ、宣教の業を成し続ける務めを与えられている。(5〜7節)

<結び> 私たちはが住む、今のこの時代、この日本の社会はどのような社会であろうか。「私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです」と言うのに、当てはまっているだろうか。「敬虔」と言う言葉は、「神を敬い、心の底から慎み深くする」、そのような態度を指す。「威厳」は、「軽々しく近づけない、厳かなようす」とのこと。心の底から生ける神を慕い求め、神の前に心を低くして、神を礼拝するためには、今の時代の騒がしさは、妨げにこそなっているのかもしれない。人々の内面が尊ばれ、心を静めること、急がずに立ち止まって、自分の生き方を問い直すことができるよう、この社会が整えられることを、今一度、神に祈り求めることが大事と、強く思わされる。今、国会で審議されている法案は、この国の社会をどのように導くのか、どんな意味があるのか、考えておきたい。それこそ国会で審議されることについても、私たちの祈りは必要である。教会の福音宣教の業と、決して無関係でないと覚えたい。「真理」は、いつの時代でも、どこの国でも尊ばれなければならず、「真理」を追い求める心を、神は良しとされるからである。「神は、すべての人が救われ、真理を知るようになるのを望んでおられます」との、神の御心を私たちが心に刻んで、神が働いて下さるのを待ち望む祈りをささげて、しっかり歩めるよう導かれたい。