創造主なる神様による天地創造の記事。今日はその5日目と6日目。
①これまで、神様はまず、第一日目、最初に光を造り、光とやみとを区別されて、昼と夜とが交替で来るようにされて、それから二日目以降、順次、大空、陸地、植物、太陽、月、星、とお造りになられたのを見てきた。ここまでも輝くばかりの青い空、青い海、それに地は緑で覆われ、あるいは色とりどりの花や果実をもって装わせて、カラフルな芸術作品のような世界が造られていた。しかしそこには、声や歌はなかった。あるのは風の音、波の音、あるいは木々のそよぐ音。声や歌のない、沈黙の世界。そして動きのない世界。そんなただただ静寂だった光景が、この第五日目を境にガラリと変わる。水中には魚が泳ぎだし、空には鳥が飛びかうようになる。パシャパシャッと魚が跳ねたり、大きな群れを成す魚はまるで全体が一匹の魚のように一斉に向きを変えて泳いだり。勢いよく猛スピードで泳ぐ魚もいれば、クラゲのように波にもまれてのんびり漂うものもあり。実にユニークな、個性たっぷりの生き物たちで満ちている。他方、目を空に転じれば様々な鳥が気持ちよさそうに空を飛んでいる。森からは鳥のさえずりが聞こえてくる。鳥の声って、どうしてあんなきれいな声が出るのだろう?と不思議に思うくらい、得も言われぬ声で鳴く鳥もいる。それも一種類ではなくて実に様々な声と鳴き方で。
六日目になると、今度は獣が地上を走るようになり、虫もうごめく。これまた実にさまざまな種類の動物、昆虫に至っては無数と言ってもいいくらいの数。神様にはアイディアが枯渇するという事はないのだろう。いくらでもデザインを考え出して実にユニークな動物や虫たちを造っている。そしてそれら動物や虫たち、それこそ山奥の人の踏み入れた事もないようなところにいる動物や虫に至るまで、そのすべてを養っておられる。神様はいのちを喜ばれるお方、いのちを貴ばれるお方。
こうして、無気味な暗い混沌は、ひとつひとつみな、神の手造りの作品であるところのいのちによって生き生きとして、声も出て来、叫びも出て来、歌も出て来る、輝くいのちの世界に一変していくという次第で、読んでいて嬉しくなる。
②20‐25節は水生生物、鳥類、それに陸上動物や虫の類の創造。
前にも少し触れたが、ここでもくどいと感じられるほど、何度も念を押すように「種類に従って…創造された」「種類に従って…生ぜよ」「種類に従って…造られた」と繰り返している。まるで数千年後に現れる進化論を念頭に置いて、あらかじめ釘をさすかのように、神様は最初から種類に従ってお造りになったのだと、強調しているかのよう。日本では、進化論がまるで、他の万有引力の法則や相対性理論のように、実証された事実であるかのように教えられているが、とんでもない事である。と、私みたいなものが言っても何の説得力もないだろうが、二人のノーベル賞科学者が口をそろえて言っていると言ったらどうだろうか。「「大発見」の思考法」(文藝春秋)という本で、iPS細胞で有名な山中伸弥教授と、素粒子の専門家の益川敏英教授という二人のノーベル賞受賞者の対談がある。その最後の章が「神はいるのか」という題。益川さんは無神論者、それもただ自分が信じないというだけでなく、人が信じているのをやめさせようという積極的無宗教との事。対して山中さんは、クリスチャンかどうかはわからないが、切羽詰まったら苦しい時の神頼みで「神様、助けてください」と祈るという。山中さんは「生物学をやっていると、これは神様にしかできない、と思うような事がたくさんある」と言っている。そして「ヒトはサルから進化したのか、それとも神が造ったのか、ときかれれば、日本人はなんとなく、サルから進化したというほうを信じますが、それは何の根拠もない事です」と言い、さらに一歩進んで「そのうち、ダーウィンの進化論は間違いだった、という事になるかもしれません。」とさえ、言っている。興味深い事に、無神論者の益川さんも「日本人は進化論を信じないなんて怖いな、と思うかもしれないけれども、実は進化論を信じるのもある意味では怖い事だ」と言い、「人がサルから進化したという事は、何の根拠もない」とバッサリ切って捨てている。その本には触れていなかったが、進化論を信じるのもある意味でこわいというのは、適者生存という考え方、環境に適したものだけが生き延びて、そうでないものは滅んでいくという思想は、いのちの差別につながるからではないか。ヒットラーもユダヤ人虐殺を正当化するための思想的根拠として進化論を利用したと言う。進化論はそもそもが間違いなのだが、それを人間に当てはめると極めて危険な悪魔的な思想である事が明らかになる。弱者切り捨て、淘汰されて消えていくのが自然の理、と。
それに対して聖書は、海の魚も空の鳥も、地上の動物も虫けらたちでさえもが、一つ一つ、神様の手作りの作品。神様が慈しんでお造りになった神の作品なんですよ、と告げる。ファーブル昆虫記で有名なファーブルは、虫の体の構造や生態を調べていて、そこにあらわれている、いのちを支えるための精妙な構造、仕組みを見て、「私は神を見ているのです」と言ったと言う。虫一匹にさえ注がれている神様の慈しみ。虫一匹でさえ、いのちを支えるための、驚くような仕組みが、それこそ細胞一つに至るまで神様の知恵をもって造られている。時々、テレビで動物や虫の生態を紹介する番組があるが、それを見て多くの人が感動するだろう。そういういのちを支え、育む仕組みが解明されればされるほど、神様がいのちをいつくしんで、生かしておられるのがわかって感動する。そこにはまさしく神様の御心がーどんな小さないのちさえも慈しみ、喜び、育もうとしておられる神様の御心がーあらわされている。
③こうして、いよいよ最後に神様の創造の目玉である人間の登場となる。この特別あつらえの地球も、実は人間のために造られ、人間に与えられたものであり、こうしてこの地上を治めるべき人間を最後にお造りになって、神様の創造のみ業は完了となる。人間の創造は、神様の創造のみ業のクライマックスであった。26-31節。
順番が前後するが、29節、30節には、食べ物について神様が定められた事が書いてある。「種を持つすべての草」は、稲や麦のような穀物、「種を持って実を結ぶすべての木」は果物の事。これらが人間の食物とされた。動物も、緑の草を食物として与えられた。ちなみに、肉食が始まるのはノアの洪水の後(創世記9:3)。人も動物も、最初は他の動物の血を流すような事なしに、植物だけを食べていた。
さて26節に戻って「われわれのかたちとして」「われわれに似せて」と「われわれ」とあるのは、三位一体が暗示されていると言われる。父、子、聖霊という三つの位格であられるただ一人の神様。三位一体の神様。神様は、他のものをお造りになったときには、ただ「何々よ、あれ」というふうに一言で済ませられたが、人間を造るときには「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」と、これは三位一体の神様の特別な意気込みが感じられる。神様に似るように、神様のかたちに、とは、神様に似た人格を持った存在として造られたという事である。すなわち、知識と義と聖さとを持つ存在として造られたという事(エペソ4:24、コロサイ3:10参照)。そのような人格を持って神様に愛され、愛し、交われる存在として造られたと言う事である。もちろん、先に述べたように、他の被造物も、神様は喜んで造られた。それらの被造物も、御自分の知恵と力とを用いて、これを慈しみ、喜びつつ、お造りになった。しかしそれらは、人格をもって神様に応答する事はできない。本能にしたがって行動するだけで、自らの意思によって善を選び、悪を退け、神様の御心を選び取る、と言った事はできない。ただ、神のかたちに造られた人間だけが、神様を知り、神様の御愛に応答して御名を賛美し、又神様に似たものとして正義と聖さとをもって分別し、行動する存在なのである。
人間の尊さ、尊厳は、この神のかたちにある。人を殺してはいけない理由も、ここにあると聖書は言う(創世記9:6)。人間と動物は肉体の構造においては共通した部分が多くあるとしても、神のかたちに、神ご自身の似姿に造られたという点において、動物とは全く異質の、特別な存在。まさしく神の至宝なのだ。進化論を教え込まれている現代人は、人間は決して動物の延長線上にあるのではないという事を肝に銘じるべきだろう。だから、動物と同じように本能や欲望の赴くままの生き方をしていてはいけない。知識と義と聖という、神のかたちを与えられている神の至宝としての、良い意味での誇りを売り渡してはいけない。
言うまでもなく、27節に「神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあるように、男性も女性も同じように神のかたちに造られた。ちなみに、古代の文献には、王の事を神のかたちのあらわれとするものがあるそうだが、聖書は王だけではなくて人間一般、男も女も、神のかたちに造られたと言って、すべての人の尊厳を保証している。そしてそれは、「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」とあるように、他の被造物を治める事と結びついている。今まで造ってきたものはすべて、人間のためにと整えてきたものだったから、こうして最後に人間を造って「ほら、これら全てのものは私があなたのために用意しておいたのだよ。これをあなたにまかせるから、私の恵みを十分に味わい、またこれを知恵を用いて、正しく治める喜びも味わっておくれ」とすべてのものをお渡しになったのだろう。光にしろ、大空にしろ、海や陸、植物、太陽、月、星にしろ、それから魚や鳥や動物にしろ、みんなみんな、神様が人間のために、とあらかじめ造っておかれたものだった。ちょうど、赤ちゃんが産まれる前に、親がおしめやら着物やらミルクやら、必要なものをすべて整えてから出産するように、まず、あらかじめ人間が喜びをもって生活できるための舞台を整えてから、最後に人間をお造りなった。そして神様の御心に沿ってそれら被造物を管理するようにといのちを与えられたのだろう。そう思うと、今の世界に見られるような、欲望の赴くまま、自然を破壊する姿は、本来、神様から与えられた人間の使命から大きく逸脱してしまって、せっかく神様から与えられていた栄誉を踏みにじっていると言わなければならないだろう。人間はあくまでも、神様からこの自然の管理をゆだねられた管理人。創造主なる神様の御心に沿ってこれを管理し、神様の栄光を表すべき。そう考えると、イエス・キリストによって与えられる救いというのは、ただ単に自分が永遠のいのちを与えられた、という自分一個の幸せ、喜びだけで留まるのではなくて、被造物を御心に沿って正しく治めるという、本来与えられていた使命の回復という事も視野に入れるべきものなのだろう。神様の救いは中途半端ではない。人間に本来与えられていた使命をまっとうさせるところまで成し遂げずにはおられないはず。そのために、神様はみ言葉と聖霊によって私たちをキリストの似姿へと造り変えて、それぞれに役割を与え、力を与えられる。それぞれの持ち場で、神の似姿に造られた者として、知識と義と聖さを少しでも輝かせるものでありたい。神の至宝としての輝きを放たせて頂き、天におられる神様の御目をお喜ばせしたいと願う。
④最後に、こんなふうに、御自分に似たものという最高の栄誉を与えて人間をお造りになったとは、いかに神様は人間を愛し、慈しんで、特別中の特別な者としておられたのか、否人間がなんて一般論でなく、この自分が人間として造られたと言う事は、この自分がいかに神様に愛されている存在なのか、もう一度胸に手を当てて考えてみる必要を覚える。自分が道端のかえるでもなく、からすでもなく、みじんこでもなく、神様に似せて造られたという、最高の栄誉を与えられた人間に造られたと言う事を改めて感謝しなければいけないと思う。人間は決してサルから進化したものではない。神様の至宝なのだ。
キリスト教は神中心の宗教と言われるが、それは確かにそうなのだが、その、神様の創造のみ業の中心は人間だった。神様の創造のみ業の眼目は、断然人間だった。神様が、一つ一つ人間のために、と手造りで造ってくださったこの世界に、最後に達磨に目を入れるように、仕上げとして被造物の冠たる人間をそこに置いて、初めて今まで造られたものも、それは非常に良かった、と言われている。神様はもろ手を上げて、私達人間の誕生を喜ばれた。私達もまたこの世界も、これ程まで、喜ばれていた。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、という律法の第一の戒めは、実は、神様のほうがこれ程まで私達人間を愛しておられればこそ、求められている事でもあった。その事をもう一度、私達は覚えておきたいと思う。そしてまたこれ程までに愛され、喜ばれているものだったからこそ、今度は逆に、その人間が御自身に背いたとき、神様の悲しみと落胆は一層、激しいものとなったのではないか、という事にも気付かされる。かわいさ余って憎さ百倍と言うが、愛し、喜んでいればこそ、その反逆、背信は許し難いものとなるはずだった。しかし神様は、私達が背き去ってもその場で切って捨ててしまうのではなくて、最愛の一人子、イエス・キリストをお遣わしになって、背信の人間をお救いになり、再び御自身のものとしてくださった。堕落する以前のように、いや堕落する以前にも増して、キリストによってお救いになった私達を神様は喜んでおられると聖書は他のところで語っている。まるでいったんなくした大切な宝物を見付けた時のように、いったんどこやらに迷い出て放蕩に身を持ち崩した息子が、悔い改めて親もとに戻ってきた時のように、神様は一層大きな喜びをもって私達の救いを喜んでおられると、聖書は語っている。
今、救い主キリストによって、この造り主の御愛に、再び入れられた私たちは、今日も又、この永遠に変わらない、造り主の御愛に感謝し、尊い御名をほめたたえて、神様の御栄光をあらわしたい。そして願わくは、その造り主の御愛を覚えて、少しでも「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という第一の戒め、いや、戒めというより、第一の神様の願いに、お応えする事ができたら、と思う。
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