『第二部 人間の救いについて:聖霊なる神について 第20主日
問53 「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。
答 第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、
ということ。
第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、
まことの信仰によって
キリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、
わたしを慰め、
永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。
天と地を造られた真の神は「ただひとり」と、私たちは信じている。そして、その神は「三位一体の神である」と信じて「使徒信条」を告白する。私たちが信じている「三位一体の神」について、「ハイデルベルク信仰問答」は、順次、丁寧に説き明かしてくれている。問答53は、「聖霊なる神について」であり、「我は聖霊を信ず」と告白する時、私たちは、何を、どのように信じているのか、そのことを教えてくれる。
1、問53「『聖霊』について、あなたは何を信じていますか。」答「第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。」聖霊なる神が、父、子と全く同様に「永遠の神であられる」という、この信仰を私たちは告白している。神は霊であり、目には見えないお方である。目に見えない神の第二人格である「子なる神」が、人となって、見える形をとって地上を歩まれ、罪の身代わりとなって十字架で死なれた。御子キリストは三日目に死からよみがえり、御子を信じる者に、永遠の命の約束を保証されるようにして、天に昇り、父なる神の右に着座された。目に見える形での神は、天に昇られたが、御子は、「助け主」となる「聖霊」を遣わすと約束しておられた。聖霊は、ペンテコステの日に、約束された通りに弟子たちの上に降り、弟子たちは、自分でも驚くほどの力をいただいて、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を語り始めた。(使徒1〜2章)キリストの教会の歩みは、その日から、いよいよ全世界へと福音宣教を展開して、今日に至っている。私たちが「神を信じます。神がいつも私と共におられ、私は神に守られ、導かれています。・・・」と言う時、その神とは、正確に言うなら、「聖霊なる神」を指している。聖霊なる神が働いて、私たちは「主イエスを信じます」との信仰に導かれ、「助け主」である「聖霊」に守られ、導かれて、信仰生活を続けさせていただくのである。そのことについて答が続く。(16〜17節、26節)
2、「第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。」聖霊は、「わたしに与えられたお方でもあり」とは、私たちが、運よく聖霊に導かれている・・・という以上に、助け主として、父から与えられていること、キリストにある私たちに恵みを注ぎ続けるために、必ず私たちと共にいるようにと、父から遣わされた「慰め主」である、という意味である。私たちは、「まことの信仰によって」、「助け主」であり、「慰め主」である「聖霊」の守りと導きに依り頼むことができる。それは、単なる思い込みでなく、心からの信頼である。代々の教会は、様々の困難に直面しながら、時には打ちのめされながら、聖霊に守られ、導かれて歩み続けた。使徒の働きに記されている出来事、パウロの手紙や他の手紙に記されている出来事、それらはみな、聖霊に導かれた教会が経験した事柄である。私たちの教会の歩みも、その一端を担わさせていただいている。聖霊なる神が私たちを恵みに与らせ、私たちを慰め、永遠に私たちと共にいて下さるからこそ、私たち一人一人の今がある、と言うことができる。
3、神は霊であるという理由で、聖書の神はなかなか分り難い、信じるのは難しいと思われる。目に見えない神は信じ難い。それに加えて「三位一体の神」を理解するのはもっと難しい・・・と。しかし、「三位一体の神は、理解するのでなく、信じることが大事」と言われる。そして、私たちの信仰の理解を助けてくれるのは、「この方はわたしに与えられたお方でもあり」と言われていることにある。すなわち、私たちの内に住む方として遣わされたのが「聖霊」なのである。私たちの内に住み、内側から私たちを動かして、導いて下さるので、私たちは信仰へと一歩踏み出すことができる。「まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ」て下さったのは、正しく聖霊なる神の働きによる。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネ3:8)と主イエスが言われたように、聖霊の自由な働きにより、私たちは信仰へと導かれる。その聖霊が永遠の神ということは、私たちはこの地上に縛られることなく、永遠の天の御国へと招き入れられているという、大いなる慰めが与えられていることになる。
<結び> 聖霊なる神について、「助け主」「慰め主」「弁護者」など、その働きを示す表現がある。共におられる「助け主」は、傍にいて、手を差し伸べるようにして助けて下さる方。「慰め主」は、ほとんど「助け主」と同じ意味であって、弱くて心が折れそうな時、共にいて慰めて下さる方。そして「弁護者」も、元の言葉は同じで、罪のために責められ、顔を上げられない時、傍に立って助けてくれる方。いずれも、聖霊は私たちの内に住んで、私たちの思いと行いを、正しい道へと導いて下さる方として、私たちを支えて下さっている。私たちが、主イエスをキリストと信じているなら、聖霊は既に私たちの内に住んでおられる。この事実を忘れないように。一層聖霊に満たして下さいと、祈ることがあるかも知れない。そのように祈るよう勧められてもいるから・・・。けれども、聖霊は既に、主イエスを信じた私たちの内に住んで、私たちを守り導いておられる。私たちは、この地上にあっても、もう既に天の御国の永遠の安息に入れられている。その確かさがあって、地上の生涯を聖霊に導かれ、支えられながら、神の子として、また神の民として歩むことができる。聖霊なる神が、私たちを永遠の御国に入れて下さっていると信じて歩めるところに、私たちの信仰の不思議があり、また幸いがあるのである。
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