礼拝説教要旨(2018.06.10) =ハイデルベルク信仰問答= 問答:50〜52
再び来られるキリスト
(ピリピ3:17〜21)

『第二部 人間の救いについて:子なる神について      第19主日
問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか。
答  なぜなら、キリストが天に昇られたのは、
    そこにおいて御自身がキリスト教会の頭であることを
    お示しになるためであり、
    この方によって御父は万物を統治なさるからです。
問51 わたしたちの頭であるキリストのこの栄光は、
   わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答  第一に、この方が御自身の聖霊を通して、
    御自分の部分であるわたしたちのうちに
    天からの諸々の賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。
   そして次に、わたしたちをその御力によって
    すべての敵から守り支えてくださる、ということです。
問52 「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、
   あなたをどのように慰めるのですか。
答  わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、
    かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し
    すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、
    まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。
   この方は、御自分とわたしの敵を
    ことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、
    わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、
    すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。

 神の御子、「イエス・キリストを信ず」に関する問答の最後は、「全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」について、どのように理解するかである。キリストが天に昇り、神の右に着座されたのは、この方こそが「教会の頭」であることを示すためであり、父なる神は、キリストによって万物を統治されることが明らかになるためであった。(問答50)神は、御子イエス・キリストを通して、万物を治めておられる。(エペソ1:20-23) この方がおられることによって、私たちにどのような益がもたらされているのかと、その問答が続く。

1、問51「わたしたちの頭であるキリストのこの栄光は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。」答「第一に、この方が御自身の聖霊を通して、御自身の部分であるわたしたちのうちに天からの諸々の賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。そうして次に、わたしたちをその御力によって すべての敵から守り支えてくださる、ということです。」キリストが御自身の聖霊を私たちに遣わして下さっていることは、聖霊を通して、天からの多くの賜物を注ぎ込んで下さっていることである。それは、恵みとして与えられる賜物である。奉仕する賜物であったり、教える賜物であったり、一人一人を豊かに用いようとする賜物が、私たちに注ぎ込まれているのである。教会がキリストのからだであり、一人一人は「各器官」であると言われるのは、誰もが頭なるキリストによって必要とされていることを意味している。そしてキリストに連なる一人一人は、聖霊の御力によって、「すべての敵から守り支えてくださる」という、大いなる益を受けることになる。聖霊は「助け主」であり、また「弁護者」である。キリスト御自身が「良い牧者」として、私たち「羊」を守る方であり、そのキリストが天に昇り、神の右の座に着かれてからは、聖霊が、あらゆる敵から私たちを守る方として、いつでも、どこでも、どんなことにでも、確かな守りを与えて下さっているのである。(ヨハネ10:11、14:16-17、26、ヨハネ第一2:1)

2、聖霊の御力によって守られている私たちは、この地上にあって、天上のことに心を向けるように、地上のことに心を奪われることなく、御言葉に耳を傾け、キリストの教えに従って歩むようにと導かれている。世にあって世の者ではないように、しかし、世にあって、キリストの弟子としての証しを立てるようにと、主イエス・キリスト御自身によって期待されている。この地上の日々をどのように生きるのか、どのように歩むのか、それこそが私たちの課題なのである。地上での、この世の現実は時に過酷である。キリストに従うゆえの困難や災い、また悲しみや苦しみが、必ずのようにつきまとう。それらに打ち勝ち、信仰の道を歩み抜けるのは、天の御国での救いの完成の約束があり、キリストが再び来られるとの約束があるからである。キリストは、「生ける者と死ねる者」に対して、全く公平な審判を下すお方である。その日、キリストは裁き主として来られる。再び来られるキリストを待ち望む私たちは、永遠の刑罰に投げ込まれるのでなく、永遠に「天の喜びと栄光の中へと迎え入れ」られる。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」その時、キリストは、「私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(20〜21節 ※ヘブル9:24-28)

3、キリストが再び来られるとの希望は、救いの完成の日であるゆえの喜びである。けれども、ただ喜びの日を待つだけでなく、日々、自らの生き方を省み、悔い改めの心を忘れないよう、絶えず自己吟味することが大切となる。使徒信条にて「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白する時、自分自身が審かれるのでは・・・と恐れることはいらない。だからと言って、何をしても大丈夫・・・と、自分の言動に無頓着であってはならない。私たちキリストによって救いに入れられた者が、どのように生きるのかについては、実に多くの教えが語られ、多くの警告が発せられているからである。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。・・・・」に始まり、「・・・しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。・・・」と主イエスは語られた。「自分の宝は、天にたくわえなさい。」また「さばいてはいけません。さばかれないためです。・・・狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。・・・わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。・・」と。(マタイ5:3〜7:27)

<結び> 最後に、使徒パウロが生涯をかけて語り続けた教えを心に刻みたい。教会はキリストのからだであって、一人一人は「各器官」であること、すなわち、互いに重荷を負い合うこと、支え合うこと、愛し合うことによって、からだ全体が、いよいよキリストに似る者とされるようにと、語り続けている教えである。ローマの教会にも、コリントの教会にも、ガラテヤ、エペソ、コロサイの教会にも、同じ教えを語っている。時に苛立ち、時に涙し、何としても、気づいて欲しいと心を込めた。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。・・・」(ローマ12:3以下)「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。・・・」(コリント第一12:25-27)「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13以下) 「・・・謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い・・・」(エペソ4:1以下) 御国に入る日まで、一層、キリストに似る者として変えられる歩みが導かれるように祈りたい。