創造主なる神様による天地創造の記事。その4日目。太陽、月、星の創造。
@「提灯に感謝?造り主に感謝!」言うまでもなく太陽はありがたい。世界を明るく照らし、熱を与え、植物の光合成を可能にし、等々。素晴らしい神様の賜物。これを私たちのためにお造り下さった偉大な創造主をあがめるとともに、その至れり尽くせりの親心に心から感謝し、礼拝を捧げる者である。ところが他方、その恩恵の偉大さのゆえに、昔から太陽は世界各地で礼拝の対象にされてきた。エジプトのラー神、日本の天照大神等々。ネットで調べると「太陽神一覧」なるものが出てきて、そこには出るわ出るわ、なんと91もの神々の名前が列挙されていた。月や星も神とされたが、特に太陽はこれなしには生きていけない必要不可欠なものとしてあがめられた。しかし太陽が神なのでは決してない。(ちなみに、太陽はそのほとんどが水素とヘリウムからできているという。)
こんなたとえ話がある。ある人が夜遅くまで友人の家にいて、さて帰ろうという時に友人が提灯を貸してくれた。提灯のおかげで暗い夜道が明るく照らされ、無事家に帰ることができた。その時に、その提灯に向かって「提灯様、ありがとうございました。」とお礼を言う人はいない。その提灯を貸してくれた人にお礼を言う。太陽は巨大な提灯。これに向かって礼拝を捧げるのではなく、これを造ってくださった方にこそ、感謝するべきである。
そう思って改めてこの所をよく読んでみると、当時偶像崇拝を連想しがちな「太陽」、「月」という直接的な言葉を使わず、あえて「光る物」と呼んでいる(14,15,16節)。また神がこれらを「造られ」「昼をつかさどらせ」「夜をつかさどらせ」とあくまでも神が造り、神の命令によってこれらが昼夜をつかさどっていることを覚えさせ(16節)、また神がこれらを「天の大空に置き」「地上を照らさせ」「昼と夜とをつかさどり、光と闇とを区別するようにされた」(17,18節)と神が采配されてこのようになったことを告げている。
次のような伝承がユダヤにあるという。ある少年が太陽を見て次のように考えた。太陽のおかげで世界が明るく照らされ、暖かくなる。太陽はいのちの源だ。太陽を礼拝しよう。「太陽さん、ありがとうございます。あなたのおかげですべてのものが生きています。」そういってずっと太陽を拝んでいた。ところが時間がたって夕方になり、日が沈んだ。そこには太陽がない。代わりに月が出てきた。少年は考えた。そうか。太陽よりも月の方が強いんだ。だから月が太陽を追い出したんだ。「お月様。あなたは太陽よりも強い方です。あなたを拝みます。」そう言って今度は月をずっと拝んでいた。ところが朝になると今度は月が姿を消し、再び太陽が現れた。そこで少年は考えた。よーく考えた。そして言った。「わかった!太陽と月の上に本当の神様がおられるんだ。そして太陽と月に命令を出して動かしているんだ。太陽と月の上におられる本当の神様。あなたを礼拝します。」素晴らしい自然の恵みを、その背後におられてそれらすべてを私たちの益となるようにと創造し、配置し、采配を振るっておられるお方の存在と、そのお心遣いに思いをいたらせるものでありたい。
A「神は手段に制限されない方」ところで、神様は太陽、月、星を4日目に造られた。昔、まだ信じる前、聖書のあら探しをしていた私は「太陽が4日目に造られたのに、1日目から夕があり、朝があったというのは、おかしいではないか?植物が3日目に造られたのも、太陽がなければ光合成ができないではないか?古代人はこんなのを信じていたのだろうが、科学的な思考に慣れた我々現代人は、到底信じる事はできない。」鬼の首でも獲ったように言ったものだった。しかしクリスチャンの友人は事もなげに「1日目に光が造られているからいいんじゃない?」と答え、こちらはあっけなく撃沈という次第であった。
光が最初に造られて、その3日後に太陽が造られたという、一見矛盾に見えるこの順番にも意味があるのだと思う。神様は太陽という手段なしにでも、いくらでも光を造って朝、夕を造ることがおできになるということ。これを認めることが、神を神とする事、また神に栄光を帰す事に通じるのだろうと思う。(参照ローマ4:17-21)ウェストミンスター大教理問答105問には、どんな事が偶像崇拝に当たるかというリストがあるが、その中に不正な手段を利用することと並べて「正当な手段そのものに信頼しきること」があげられている。手段は手段に過ぎない。正当な手段であっても手段そのものを神とする事は偶像崇拝の罪。我らが主の、処女降誕も手段を超えた神ご自身の直接介入の御業であった。マリヤに受胎告知した御使いの言葉「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)、聖霊に満たされてエリサベツがマリヤに言った言葉「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)ただ神のみを神とする、このような創造主への信頼を持っていたいと願わされる。人間的な手段がすべて断たれたと思われる時でも、最後の砦、究極的な拠り所として文字通り全知全能の神を持っている者は幸いである。
B「計画を立てる事は良い事。ただし神様の主権を認めて。」そのことを踏まえた上で、である。神様が、太陽、月、星などの天体を造られた目的を抑えておきたい。14節をもう一度読んでみたい。
神様ご自身は、手段を超えて働くことができる。神の力は、手段に制限されない。しかしだからと言って、手段をどうでもいいものとか、軽視するのも神様の御心ではない。神様は、この天地創造の4日目以降、太陽と月によって昼と夜とを司らせることをよしとされたのだから、神様が定めたその秩序を重んじるべきである。神様は、天体を、季節や日や年のしるしとして役立てるようにとお与えになった。整然と運航する天体の動きによって、人間は季節の巡りを知り、計画的に農業を営むことができる。古代エジプトでは周期的にナイル川が氾濫していたため、いつそれが起こるか正確に予想する方法が熱望された。そして、地上から見える最も明るい星とされるシリウスが、夏至の頃に日の出の直前に東の地平線から上がって来るのが見えると、ナイルの氾濫が始まることを知った。まさに「しるし」として役立っていたのである。(それとは別に氾濫期から氾濫期までの日数を数えて365日周期である事も知っていたようである。)
また、暦は天体の運行に基づいて作られる。おもに太陽と月が用いられ、月の運行に基づいた暦を太陰暦、月と太陽の運行に基づいた暦を太陰太陽暦、太陽の運行に基づいた暦を太陽暦という。このおかげで我々はカレンダーを作って計画を立てたりして生活に役立てることができる。ある人たちは、計画を立てることが信仰的ではないと言う。しかし、改めて言うまでもないが、計画的であることは良い事である。神様の創造の御業自体が段取りよく、計画的であり、さらに神ご自身がカレンダーに役立つようにと天体を与えられたのである。
ただし、注意点もある。当初自分が立てた計画にとらわれてしまい、物事が計画通りにいかないからと言って、不安や恐れや怒りに支配されてはいけない。(現代人はこの傾向が強いかもしれない)そもそも、計画通りに行くことなどないと考えた方が現実的かもしれない。しかし、たとえ自分の計画がすべてダメになったとしても、それなら神様はほかの計画を用意しておられるのだ、と思える者でありたい。信頼は(計画に、ではなくて)神ご自身に置くのである。要は、神への信頼と自分の頭で最善と思われる計画を立てる事のバランスが大切なのではないか。その両者を調和させる知恵を主の兄弟ヤコブが教えてくれている。ヤコブ書4:13-15「 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」言うまでもなく、ここは商売をして儲けることが悪いと言っているのではない。ただすべてにおいて、最終的な決定権は神様にあるという、神様の主権を認めたうえで、計画を立て、やろうと思う事をやりなさい、というのだろう。「もし御心なら、生きていて、これこれをしよう」この姿勢を心に留めていたい。
C「創造の御業は区別する御業でもある」また神様の創造の御業は区別する業という面がある。光とやみとの区別(4節)、大空の上の水と大空の下の水との間の区別(6、7節)、さらにここでもう一度昼と夜、光とやみの区別(14、18節)。これに関連して二つの事を思う。
(1)御言葉の剣は、私たちの思いを識別してあきらかにする。ヘブル 4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」私たち自身の偽善や自分でも気づいていなかった罪深さを御言葉によって明らかにされたとき、それは私たちを責めるためではなく、私たちがイエス様の似姿へと成長、成熟するためなのだから、喜んで悔い改めるものでありたい。神様は、私たちがそうすることをどれほど喜ばれる事だろうか。
(2)神は光を闇から区別されたように、私たちが世の光として輝くことを望んでおられる。正しい良心、聖さ、そして何よりも永遠のいのちの希望を持つ者として、世の与えるのとは違う希望の光を掲げるものでありたい。ピリピ2:15-16「…それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。…」正しさ、聖さというと、ハードルが高いと感じてしまうかもしれない。が、永遠の命の希望という光を心の内に掲げ、自然に、ほのかにでも、表ににじみ出るような生き方はできないだろうか。使徒ペテロも言う。ペテロ3:15 「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」この世がすべてだと思ってあせったり、つじつま合わせをしようとして空中分解したり、不安を紛らわせようといろんなことに暴走したり、挙げ句の果てに絶望したり…。そんな世にあって、キリストの与える永遠のいのちの希望の光をともす、「キリストの提灯」とならせて頂きたい。そして私たちにその希望の光をともしてくださったお方、イエス・キリストへと、一人でも目を向けてもらえるならば、これに勝る幸いはない。
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