礼拝説教要旨(2018.05.27)
共におられるキリスト=ハイデルベルク信仰問答= 問答:46〜49
(マタイ 28:16〜20)

『第二部 人間の救いについて:子なる神について      第18主日
問46 あなたは「天にのぼり」をどのように理解しますか。
答  キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ、
    生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる時まで、
    わたしたちのためにそこにいてくださる、ということです。
問47 それでは、キリストは、約束なさったとおり、世の終わりまで
   わたしたちと共におられる、というわけではないのですか。
答  キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。
   この方は、その人間としての御性質においては、
    今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、
    片時もわたしたちから離れてはおられないのです。
問48 しかし、人間性が神性のある所どこにでもある、
   というわけでないのならば、
   キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。
答  決してそうではありません。なぜなら、神性は捉えることができず、
    どこにでも臨在するのですから、
    確かにそれが取った人間性の外にもあれば、
    同時に人間性の内にもあって、
    絶えず人間性と人格的に結合しているのです。
問49 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答  第一に、この方が天において御父の面前で
    わたしたちの弁護者となっておられる、ということ。
   第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。
    それは頭であるキリストが この方の一部であるわたしたちを
    御自身のもとにまで引き上げてくださる
    一つの確かな保証である、ということです。
   第三に、この方がその保証のしるしとして
    御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。
    その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、
    キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。

 5月第一週の「日本長老教会設立記念礼拝」、第三週の「教会設立39周年記念礼拝」と、今月は「記念礼拝」が続いた。また先週は「ペンテコステ礼拝」と「共同の祈りの日」が加わり、ハイデルベルク信仰問答はお休みしていたが、今朝は、問46〜49に戻って主を仰ぎたい。子なる神、イエス・キリストについて、私たちは何を、どのように信じているのか、問答が続いている。十字架で死なれた主イエスは、死からよみがえられた。よみがえられたイエスは、その後40日に渡って、弟子たちの前に現れ、彼らを励まし続けた後、天に昇って行かれた。主イエスの「昇天」は、私たちに何を教えてくれるのだろうか。

1、問答46では、天に昇って行かれた主イエスのことを、目の前から去って行かれた・・・と理解するのでなく、「キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ、生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる時まで、わたしたちのためにそこにいて下さる、ということです」と、かえって、地を遍く見渡すように、いつでも、どこでも、わたしたちためにこそ、天におられる・・・と言う。「天」は、神のおられるところ、神が神としておられる場所と理解できる。地に降られた方が、本来おられたところに戻られたのである。主は、昇天される前、弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と語り、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともいます」と約束しておられた。弟子たちは、共におられる主を信じて、福音を全世界へ宣べ伝えた。けれども、私たち人間は、目に見えることに制約されることが多く、共におられる主イエス・キリストについて、ついつい、今、ここで共におられると確信できないことがある。目には見えないゆえ、「世の終わりまでわたしたちと共におられるわけではないのですか」と、約束通りでない・・・と思うかもしれない。(問47)

2、それに対する答えは、明快である。「キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時もわたしたちから離れておられないのです。」「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と言われた約束は、人間としての制約を超えたもので、神であられるからこそ実現する、確かなもの、揺るがないものである。ところが、私たち人間の理解は、またまた行き詰まる。問48「しかし、人間性が神性のある所どこにでもある、というわけでないのならば、キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。」答「決してそうではありません。なぜなら、神性は捉えることができず、どこにでも臨在するのですから、確かにそれが取った人間性の外にもあれば同時に人間性の内にもあって、絶えず人間性と人格的に結合しているのです。」神であり、同時に人である主イエス・キリストは、いつでも、どこでも、どんな状況になろうと、私たちと共におられるお方である。この地上のどこかに行かねば会えないのでなく、どこにあっても、主ご自身から近づいて下さる、そのようなお方である。いつも共にいて下さる方、共に歩んで下さるお方なのである。

3、キリストが天におられること、私たちが立ち止まって天を仰ぐことができるのは、真に幸いである。生ける神が、私たちに目を注いで下さっていると知ることの慰め、力強さ、その幸いは測り知れない。問答49は、その幸いを教えてくれる。その幸い、また益の第一は、キリストが父なる神の面前で、私たちの弁護者となっておられる、ということにある。罪ある私たちが神の前で顔を上げることができないとしても、そこに御子がおられ、執り成して下さるので、私たちは義と認めていただける。この赦しと幸いこそ、恵みによる救いの中心である。第二は、私たちは地にあるとしても、キリストにあって、天に引き上げられるとの保証をいただいていることにある。そして第三に、聖霊を私たちに送って下さっていることにより、その御力によって、私たちが地上のことに心を縛られることなく、天上のことを求めるよう、確かに変えられている幸いがある。この地上のもろもろのことに心騒ぐことがあり、狼狽え、涙するとしても、私たちは天のふるさとを思い、天上の幸いと祝福を待ち望むよう導かれる。地上のしがらみを振り切り、天に用意された報いを心待ちするように導かれるのは、ただただ聖霊の御業という他ないことである。このようにして、私たちは、天の御国での救いの完成を待ち望むのである。(ピリピ3:20-21)

<結び> 私たちの救い主イエス・キリストは、弟子たちの見ている前で「天にのぼり」、彼らの目には見えなくなられた。けれども、今、天にあって、父なる神の御前で、「私たちのためにとりなしていてくださるのです」との事実は、何と大きな慰めであろうか。人が私たちを責め、また、自分でも自分を責めることがあっても、私たちは守られている。それは、驚くばかりのことである。(ローマ8:33-34)御子イエスを信じる信仰の幸い、その確かさをしっかりと心に刻みたい。キリスが共におられる幸い、この幸いを忘れずに・・・。そして、地上のことに心を奪われることなく、天上ことを追い求めることが導かれるように。(コロサイ3:1-11)なぜ? 私たちはどうしても、地上のことに心を奪われるからである。目先の損得や成功ばかりか、日々の思い煩い、子どものこと、将来のこと、進学や就職のこと等々、目の前に迫る心配事は生きる限り尽きない。けれども、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」と主は言われた。(ルカ10:38-42)それは「みことばに聞き入る」ことであった。「天上のことを追い求める」ことに通じている。共におられるキリストをいつも覚え、この方と共に歩むことを喜びとする、そんな信仰へと導かれたいと願う。キリストに、生涯変わらず従い通す者となるように・・・。