礼拝説教要旨(2018.05.20) =ペンテコステ・教会設立39周年記念礼拝=
地にある教会として
(エペソ 4:1〜16) 説教者:柳 吉弥太

 毎年5月は、第一週に「日本長老教会設立記念礼拝」をささげ、第三週には所沢聖書教会の「教会設立記念礼拝」をささげるよう定まっているので、その都度、私たちの教会の歴史を振り返るよう導かれている。今年は「教会設立39周年」を迎え、来年は「40周年」となるが、実に様々な経験をしながらの歩みであった。今朝もいろいろ振り返り、思い出しながら、「地にある教会」また「この地にある教会」としての務めや、あるべき姿などについて、御言葉から教えを受けたい。これまで導かれたことを感謝し、これからも主に導かれ、主に支えられて歩みたいと願って・・・。それに加えて、今日は「ペンテコステ礼拝」である。キリストの十字架の死と、死からのよみがえりがあり、よみがえったキリストが天に昇られ、その後、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちの上に降った出来事があった。以後、キリストの弟子たちは、キリストの十字架と復活を宣べ伝えて今日に至っている。そのキリスト教会の壮大な歩みを覚えながら、心の耳を澄ましたいと思う。

1、「教会」というと、私たちは「キリスト教会」と理解しているが、それでも、教会の建物を指して「教会」と言うことがある。けれども、肝心なのは建物ではなく、そこに集う一人一人であって、呼び集められた神の民こそが「教会」であると、これまで繰り返し学んでいる。教会にとって大切なのは、外見より中身であると。目には見えない、霊的な意味での「教会」があり、その「教会」が、地上で目に見える形をとって、世界の各地に、その時々、様々な形態となって存在する。「見えない教会」と「見える教会」、また「天上の教会」「地上の教会」、あるいは「公同教会」「地区教会」など、何とかして教会を理解しようとするが、なかなかぴったりと、正確に言い表すのは難しい。それでも、「天にある目には見えない、永遠の普遍的な公同教会」が、「地上で目に見える形をとって存在する地区教会」となったのが「日本長老教会」であり、その一つの現れが「所沢聖書教会」と理解できる。少々オーバーな言い方であるが、私たちの教会も、実は神の永遠のご計画の中にあり、時が満ちて、この所沢の地において建てられた、神にとって大切な教会であって、地にある教会として、神からの尊い使命を託されているのである。

2、「地にある・・・」とするか、「この地にある・・・」とするか、少し迷ったが、いずれにせよ、教会が地上に置かれたこと、その意味を覚えたい。この世にあって、キリストを信じた者が、どのように生きるのか、聖書は、その課題の大事さを語り続けている。使徒パウロがエペソの聖徒たちに語るのは、正しくその教えである。キリストを信じる信仰に導かれた人々に、「その召しにふさわしく歩みなさい」と勧め、「・・・愛をもって互いに忍び合い、・・・」と、「御霊の一致を熱心に保つ」ことを追い求めるよう命じた。それは、教会が教会として、まぎれもなく「キリストのからだ」として建て上げられるためである。キリストの教会は、一人一人がその役割を担い、果たしながら、キリストご自身に似る者となって成長すること、これこそが教会の課題であると言う。そのことがないなら、教会は、世にあり、また地にあって、右に左に揺れ動くばかり、何とも怪しげな存在となり下がるからである。教会が成長せず、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ことがないなら、「人の悪巧みや、人の欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」ことになると、パウロは大いに警告を発する。(1節以下)

3、私たちの教会は、1957、8年頃の伝道開始から数えて、今や60年の歩みとなる。1979年5月20日の長老選出による教会設立から、早39年である。男子会員より長老を選ぶという、聖書の教えに従っての歩みであるが、近年は、この「聖書に従う」という原則も、大きな揺らぎを見せる時代となった。聖書の読み方、その教えに従うのに、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略」が入り込んでいるのだろうか。「教えの風」を見分けることの難しさを痛感する。世の人々の目に留まるには、どのような方策が必要なのか、ホームページの作成やチラシの作成についての広告が、メールで送られて来る。中にはホームページを見たので・・・と、ご丁寧な勧誘がある。また書物の案内も届けられ、いらないなら、その旨の返信を・・・と。危うし危うし!! 私自身で自分に言い聞かせることは、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13-14)との教えである。主イエスがそのように言われた。狭くても、人の目に付くには地味で、また弱々しかったとしても、それでも主イエスに従うことを、決して迷わず歩み続ける。これが私たちの成すべき第一のことと心したい。

<結び> 私たちが心に刻んで、主イエスに従う上で、どの教えを大事にするのか、肝心な教えの一つは、「互いに愛し合いなさい」であろう。主は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と弟子たちに命じられた。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)この教えは、キリストの弟子たちが、この世で、すなわち、地上で生活する限り、どのように生きているのか、互いに愛し合って生きているのか、周りの人々がしっかり見ていることを、どれだけ知っているのか、分っているのか・・・と、主が問い掛けておられるものである。それでパウロも、「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」と、互いの愛こそが、教会には必要と説く。(15〜16節)

 愛し合うことが第一と分っても、私たちは、愛の乏しい者、いや愛のない者と、日々、思い知らされる。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われる主イエスの愛を、日々、受けていることを心に留めて歩めるよう祈りたい。主イエスは、十字架でご自分の命を捨て、私たちを滅びから命へと救い出して下さった。主イエス・キリストを救い主と信じて、教会の交わりの中で成長することを導かれたい。来年は教会設立40周年である。御霊の一致による愛の交わりが、一層、豊かにされるよう祈りつつ。