@創造主なる神様による天地創造の記事。神様は6日間でこの世界を整えられ、7日目に創造の御業を休まれた。今回はその2日目と3日目。大空(大気)、陸地、そして植物の創造である。
神様は、地球を覆っていた巨大な水の層を上と下とに分けて、間に巨大な空間を造られた。上の水とは、雲の事と言われる。(ノアの洪水前は、雲とは別に水の層が大気の上を包んでいたという説もある。)水というのは結構重たいものである。バケツ一杯でも満タンにすると結構重いし、ドラム缶となるととても持てないだろう。それを全地に雨を降らせるだけの大量の水を空気よりも軽くして空に浮かばせ、また降らせる。潤された地面は植物を喜ばせ、山の合間を縫って流れる小川や地表に現れた伏流水は動物たちの渇きを癒す。そして使われなかった大量の水は海に流れこむが、海はあふれることなく、水蒸気となってまた空に昇り雲となって循環する。後に造られる動植物、そして人間のために神様が備えて下さった巨大な環境サイクル。
またこの時に造られた巨大な空間。この空気の充満した空間のおかげで我々の身体は生きている。「神様、空気をありがとうございます。」と改めて感謝をささげたい。また大気圏は地球上の生物を太陽の放射線から守り(オゾン層によるUVカット?)、地球表面の気候を一定に保つのに重要な役割を果たす。また、空が青く輝き、夕方には美しい夕焼けになるのも大気のおかげ(太陽光が大気中のちりに反射する角度によって青い光や赤い光が地表に届くとの事)。あるのが当たり前のようになっている大気の空間も、実は神様の恵み。神様を否定し、感謝することもなく神様に逆らっている者にも、神様はこうした必要な保護を与えておられる。
A次は地表を覆っていた海から大造山運動によってであろうか、陸地の出現。海と陸地との区別。ところでここで「神はそれを見て良しとされた。」(10節)とある。二日目の大空の創造の時はこの言葉がなかったが、三日目にはここと、この後植物が造られた後の12節で、合わせて2回繰り返されている。ここでは二日目の大空と三日目の海と陸と三つそろって舞台が整ったということで「良し」と確認されたという事だろうか。日をまたいでの二日がかりの御業。なぜ二日がかりだったのか。もしかしたら陸を造ってしまうと海の表面積が狭くなり、それだけ水蒸気が発生する量が少なくなるので、陸地の創造を後に回したのか。
*以下、参考まで。ちょっと難しいかもしれないが、関心のある方どうぞ。(飛ばしても結構。)
人間的にはどうせなら陸の創造も二日目に入れてしまえば、一日ごとに「見て良しとされた」ときれいに形が整うので、そうしたくなるところ。なんだかこの不規則さがちょっとすっきりしない感じがしなくもない。だがだからこそ、かえってこの不規則な形そのものが、この天地創造の記事が人為的に創作された物語ではなく、単に事実をありのままに記した事を証しているようにも思われる。神様の創造の御業は、全体としては秩序正しく行われるが、人間が頭で考えるような杓子定規な、机上の空論的な、人工的な整い方ではなくて、よく見るとところどころにちょっとした不規則さがある。きれいにスパッとは割り切れない。そしてその不規則さにも意味があって、例えばここで「日」と訳されているヘブル語は「ヨーム」だが、これをいわゆる一日という意味ではなくて、一つの期間、一つの段階とする解釈がある。だがそれならここで陸地の創造を三日目に持ってくる必要はなく、むしろ二日目に入れた方がすっきりするのではないか。舞台となる大空、陸、海の1セットの創造が二日目と三日目にまたがっているという事実そのものが、「ヨーム」は一つの段階を表すのではないことを間接的に示しているのではないだろうか。
B舞台が整っていよいよ最初の生物、植物の創造。茶色一色だった殺風景な陸地は、目に鮮やかな緑をまとい、色とりどりの花や果実をもって飾られる。アニメーションのように緑がみるみる広がっていく情景を思い浮かべてみても楽しい。その植物は「種を生じる草」と「その中に種がある実を結ぶ果樹」と言われている。前者は稲、麦のようなもの、後者は桃やスイカのような果物類。「種類に従って」と繰り返されている。桃は桃を、スイカはスイカをならせる。桃の木にスイカはならない。当たり前である。だが11,12の短い二つの節の中に3回も「種類に従って」と繰り返されている。これはこのあと、海洋生物、鳥類、それに陸地のすべての生き物の創造についてもくどいほど繰り返されている。まるで後の時代に進化論があらわれるのをあらかじめ知っていて、今ある生き物はすべて初めから種類に従って造られたのだと、念を押すかのようである。
それはそれとして、種類に従って、種を持ち、繰り返し再生産reproduceする。一回で終わりでない。しかも一粒の種から何十、何百と増える。だから人や動物達が食べてもなくならない。むしろ増えていく。これも当たり前のように思っているが、何と素晴らしい神様の知恵だろう。しかもその植物のバラエティに富んでいる事!同じ土からそれぞれの種類に従ってそれぞれに必要な栄養分を吸い上げる。吸い上げられた栄養分は幹を通り枝を通ればあーら不思議、おいしい果物になるという具合。どういう化学変化が起こっているのか、門外漢の私にはわからないが、果樹をならせるそれぞれの木は、あたかも不思議な果物工場のよう。一本一本の木が、みかん工場、りんご工場、ぶどう工場、梨工場、、、。同じ土、同じ日光から、何十種類もの味も栄養分も違う美味な果物を作り出してくれる天然自然の工場。身近なところにある奇跡でした。しかも無公害。いや無公害どころか、私たちが吐き出す二酸化炭素を吸って、逆に私たちに必要な酸素を作り出してくれている。神様の環境サイクルの仕組みはすばらしい。
神様は、植物には光合成をするために光の向きや量に敏感であったり、茎や枝は上に、根は下に伸びるために重力を検知する事もできるようにもしておられる。おそらく植物の仕組みを調べ出したら、神様の知恵がそこここに見られてキリがないだろう。一つだけ、植物が繁殖する仕組みも実に様々で興味深い。種がそのまま真下に落ちると、元の木の根が張っていてそちらに栄養分を取られてしまうし、葉も茂っていれば日光も当たらない。だから種を離れたところに移動させる必要があるのだが、植物は自分で動くことができないので、あの手この手で自らの種を遠くに運ぶ(運んでもらう)。たんぽぽは、軽くて空気抵抗を受けやすそうな綿を付けて、ちょっとしたそよ風でパーッと散り空気の流れに乗って飛んでいく。スミレの仲間には、種にアリ用のエサをつけているのがあって、アリがエサと一緒に種を巣に持ち帰ってくれる。するとそこでエサと切り離されて、アリが耕してくれた巣の周りという、絶好の環境にまかれる。動物の毛にくっつきやすい形状をしたものもあって、動物が通ってそれに触れると種がその動物にくっついて適当なところまで運んでもらうのもある。また果実などは動物に食べられて、適当なところでボットンと肥やしつきで地面に落とされる。。。その手があったか、と感心させられる。改めて、方法は一つではないということ、神様の知恵の豊かさ、多様さを教えられる。福音の種をまくのも、方法は一つではない。人それぞれにタイプがあるし、置かれた環境も違う。人のまねをしてもうまくいかない場合も多い。ダビデにはサウルの鎧や兜はあわなかった(第一サムエル17:38-40)。大勢の人が集まるところに行って、マイク片手に福音を語るような正面突破が得意な人もいるだろうし、しゃべるのは苦手だが、書くのは得意という人もいるだろう。(しかし案外、神様は口下手な人を用いたりもされる)人間関係を大事にしてじっくりと福音を証するのも説得力がある方法だし、人間関係は苦手だが、祈りの後方支援に励むという人もいるかもしれない。ともかく方法は一つではない。自分に合った福音の種まきの仕方を教えて下さい、と祈ってみてもいいのではないか。大切なのは福音の種をまくことである。
C最後に、果物は食べてもらって、また良い香りを放って、喜ばれて、役割を果たしている。我々も良い香りを、実を、霊の実を、神様にまた隣人に提供するものでありたい。ガラテヤ書5章22-23節に御霊の実のリストがある。「…御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」実というのは、頑張って造るものではなくて、自然と生るもの。もちろん努力が全く必要ないとは言わないが、基本的には内側から湧き出てくるものだろう。どこからそのような良いものが湧き出てくるのか。自分の中にはそのような良いものは見当たらないと思っておられる方もいるかもしれない。でも大丈夫。罪によってこれらの実を結ばせることができなくなってた私たちを、神様はキリストに接ぎ木してくださった。キリストにつながって、キリストから栄養分を、復活のキリストの力を、御霊を注がれて、御霊の実を結ぶものでありたい。具体的には日々のデボーション、日曜日毎の礼拝、週日の集会、交わりによって、キリストにつながり、キリストから霊の栄養分を頂いて、御霊の実を結ぶようになりたい。
マルコ4:26-28でイエス様は仰った。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。」寝て起きて、そうこうしているうちに。気が付けばいつの間にか。どのようにしてかはわからないけれども、実を結んでいた。ゆっくりでも、自分では全然成長しているように思えなくても、大丈夫。神様の種は私たちが寝て起きてそうこうしているうちに、芽を出し、成長し、実をならせる。
教会は神様の果樹園。果物にいろんな種類があるように、私たち一人ひとりにも個性がある。あなたはみかん?りんご?もも?イチゴ?柿?渋柿?渋柿をも甘くする十字架があるから大丈夫。大切なのは、神様の果樹園に身を置いている事。神様のお世話を受け、神様の守りのうちに置かれ、神様の祝福のうちに留まること。教会に連なり、み言葉に触れ、祈られ、交わりに励まされ、そうこうしているうちに、なのである。
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