礼拝説教要旨(2018.05.06) =日本長老教会設立記念礼拝(1993.5.3設立)=2018年度主題聖句=
栄光を、ただあなたの御名にのみ
 (詩篇 115:1〜18)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、
あなたの恵みとまことのために、
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」
=詩篇 115:1=

 一年前の5月第一週、「日本長老教会設立記念礼拝」と共に「新会堂起工感謝礼拝」をささげた。そして今朝、私たちは、日本長老教会設立25周年記念礼拝をささげるよう導かれている。この日本の地にあって、長老政治によって教会を建て上げる志をもって歩む私たちであるが、今日まで守られ、支えられ、導かれたことを感謝し、一層、主に頼って歩み続けたいと願う。そのことを覚えつつ、今朝は、私たちの教会の2018年度主題聖句を、しっかりと心に刻みたい。この御言葉は、この年の始め、元旦礼拝でも心に留めた。その時、これを主題聖句にと考えることはなかった。新会堂の完成を喜び、また感謝するにあたって、ただ主にのみ栄光を帰すことが、私たちの成すべき第一のことと、強く迫られたからであった。その上で新年度に備えて導かれたのは、やはりこの御言葉を、覚え続けること、心に刻んで歩み続けること、それが私たちにとって大事なことと導かれた。教会のかしらは、主イエス・キリストである。だから、主の御名にのみ栄光が帰されること、それを祈り求めたいと。

1、「ソリ・デオ・グロリヤ(Soli Deo Gloria:ただ神の栄光のみ)」との言葉は、16世紀宗教改革の標語、また旗印として知られている。イエス・キリストを信じて、クリスチャンとして生きる者にとって、いつの時代、どこにあっても、また何をするにも、「ただ神の栄光のためにする。」このことを大事にしたのである。作曲家バッハは、作曲した楽譜の最後に「SDG」と記して、神にのみ栄光を・・・との思い表わしていたと知られている。一つの仕事を終え、神に感謝し、そして次に進む力を、神に祈り求めたのであろう。その信仰があるかないかによって、人の生き方は正反対となる。人は何かを成し終えてホッとする時、やはり、それなりに達成感によって心を満たされる。その時、神にあって、ここまで導かれたと感謝するのと、自分の知恵や力があって、これを成し得たとするのでは、大違いとなるからである。詩篇の作者は、果たしてどのような状況の中で、この一節を歌ったのだろうか。(1節)

2、この詩篇の背景について、二通りの考えがあるとのこと。神の民イスラエルが敵の猛攻撃を受けたものの、主なる神ご自身の介入により、不思議にも勝利したことがある。例えばヒゼキヤ王の時代、アッシリヤに攻められ窮地に陥っていた。ヒゼキヤは主に信頼して、主から来る勝利を待ち望んでいたが、敵はそのヒゼキヤを嘲り、民に向かって「ヒゼキヤにごまかされるな。・・・ヒゼキヤに聞き従ってはならない」と語って、民の動揺を誘った。王であるヒゼキヤは、アッシリヤの猛攻を凌いで、主の助けを待ち望んで祈った。主はその祈りに答えて、「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」と言われた。(列王第二18:17〜19:37)そう言われた「その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。・・・」(19:35) この出来事こそ、「私たちではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」と、心から祈り、御名をほめたたえるべきことであった。勝利の時、また喜びの時こそ、主の恵みが注がれ、主のまこと、神の真実が実現している時だからである。しかも、その時、王も民も何もせず、主の使いが勝利をもたらしていたのであった。

3、けれども、主の御名に栄光を帰すべき時は、勝利や喜びの時だけではない。この詩篇の背景は、バビロン捕囚の苦難の時のこと、あるいは捕囚から帰還した頃、神の民イスラエルにとってはどん底にあった時、「彼らの神は、いったいどこにおられるのか」と、嘲りの最中にある時のこととも考えられている。自分たちの姿はみすぼらしく、全く弱々しく、今にも圧し潰されそうで、主の恵みを待ち望む気力さえ失っていたかもしれなかった。そんな時、民は自分たちの弱さや惨めさにはよらず、ただ「あなたの恵みとまことのために」と、ようやく祈ることができた。私たちのためにではなく、「主よ、あなたご自身の栄光のために」と。その祈りに導かれる人が、「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。・・・」との事実に、はっきりと目が開かれるのである。(2〜8節)私たちは、順境の時も逆境の時も、主なる神にこそ信頼する幸いのあることを、はっきりと知ることができる。「・・・主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。・・・」(9〜15節)天と地を造られた神は、私たちを罪から救うために、御子イエス・キリストを遣わして下さっているのである。キリストが共におられる幸いは全く揺るがない。

<結び> 私たちの神、「主は、天と地を造られた方である」との言葉を心に留め、この神の御名にのみ、栄光を帰す歩みを、この一年導かれるよう祈りたい。一年の間には、喜びや感謝の日々だけでなく、嘆きや悲しみの日々もあるに違いない。教会全体を見ると、喜びと悲しみが同時に迫る日もあろう。どんな時も、主に信頼せよ、と繰り返される勧めに耳を傾け、互いに支え合う交わりを目指したい。「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。死人は主をほめたたえることがない。沈黙に下る者もそうだ。しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。」(16〜18節)2018年度の歩みが、主をほめたたえる歩みであるように。主は、私たちをこの地で生かし、用いようとしていて下さる。一人一人が感謝をもって、主をほめたたえ、主にお仕えすることが導かれるように。