礼拝説教要旨(2018.04.29)
明けない夜はない
 (創世記1:2-5 横田俊樹師)

@前回の創世記の1章1節「初めに神が天と地を創造した。」が大見出しだとすると、今日から見る2節以下はその詳細となって、今度は天と地のうち、人の活動の主な舞台となる地の方に焦点を合わせていく。「地は、茫漠として何もなかった。」「地」と言っても、いわゆる大地、陸地はこのあと10節になって三日目に出てくるので、ここの「地」は、今の大気圏に相当するところまでを含む地球全体の、まだ陸地が現れる前の原初の状態の事を指しているのだろうか。「茫漠として」という言葉は、三省堂の大辞林第三版では「果てしなく広々としてとりとめのないさま。ぼんやりとしてはっきりしないさま。「 −たる原野」 「 −としてつかみどころがない」」とあった。ちなみに新改訳聖書の第二版では「形がなく」、口語訳も「形なく」、英語の訳(NKJV, TEV)も似たようなもののようである。要は、人の住まいとして与えられている地も、今は麗しい自然をたたえた、すばらしく整えられた環境だけれども、最初はそうではなくて、たとえば、緑深い山も、そこを縫って流れる川の流れもなかった。それどころか陸地そのものさえもなかったし、青く輝く大空もなければ何と太陽や月、星すらもなかった。原初の地球は、何にもない、何にも形を成していない、寒々とした状態だった、、、それをこれから見ていくように、神様が一つ一つ人の住処として形を与え、整えていってくださって、今あるようなー本当は今あるよりももっとよかっただろう、アダムの堕落前の自然だからーこんな素晴らしい世界として造られたんですよ、と教えているのだと思う。

A人間が住むべき「地」は、初めは形らしい形がなく、何もなく、ただ大水の上を闇が覆っているばかりだった。光のまったくない、真っ暗な空間と全地を覆う大水。そして完全な静寂。そこに、神の霊が水の上を動いていた、とある。そして聖書に記されている神様の第一声が響き渡る。「光があれ。」人間の住む地を造り整えるにあたって、神様が最初になされたのは、空と陸を分ける事ではなく、太陽や月星を造る事でもなく、まず光の創造。太陽は4日目に造られるから、この時は太陽なしに、神様が直接光をお造りになってその光で地を覆われたのだろう。こうして光が造られて、途端に景色が一変する。
 まず光。その後、他のすべての事が整えられていくという順序からも、教えられるように思う。周りのあれやこれやの環境、状況よりも、まず私たち自身の心が神様からの光に照らされて、それからだんだんとほかの所に変化が及んでいく、という事があるのではないだろうか。失意のどん底にある時、聖書を読んでいて、パッと光が心にともったように感じて、周囲の状況が何か変わったわけではないのだけれども、力が与えられたという経験をお持ちの方もおられると思う。パウロも、この創世記の記事を踏まえてこう言っている。コリント人への手紙第二4:6-9

4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

 まず神様が、私たちの心を照らしてくださる。そしたらイエス・キリストによって表されている神様というお方がどんなお方かという事に徐々に目が開かれていき、そのすばらしさを知るに至る。それは頭の知識だけというよりも、実際に経験することによって初めてわかる類の知識であろう。そして心から神様をほめたたえるようになる。神様の栄光を知る知識というのは、そういう事ではないだろうか。これは神様による私たち人間の再創造の御業である。神様を知る事は力である。4:7の「土の器」は私たちの身体の事で、この神様を知るという宝を、私たちはこのみすぼらしい土の器に入れているのだが、それは、この測り知れない力が私たちから出たものではなくて、神様からのものだという事があきらかになるためだという。この測り知れない神様の力というのは、4:8-9にあるように、安易に周りの環境や状況を変える力であるというよりは、むしろ私たち自身の内側にあって私たちを支え、強めてくれる力、私たち自身を造り変える力のようである。パウロは、自分はこういう苦難にあってきたが、その中でも支えられ、キリストへの従順をやめることはない。それは自分自身の力ではなくて、神様の力なのだ。その同じ神様の力という宝をあなたたちも与えられている事に気付いてほしい、と訴えているのだろう。私たちも、まず光を心に照らして頂いて、ますます神様というお方を深く広く高く知り、力を頂いて、神様をほめたたえるものとなりたいものである。

B神様の、地の創造の御業は光から始まった。そして神様はこの光をよしとされた。神様は光を喜ばれる方、また闇に光を与える事を喜ばれるお方である。人間でも、行動にその人の性格が表れるように、神様の御業を見ると、神様というお方のお心も表されている。神様は、闇に光をもたらす事を喜ばれるお方である。
 闇の覆っているところに、最初に光を造り出そうと待ち構えている神様がおられる。これすでに福音なり、とは内村鑑三の言葉。よく、朝が来ない夜はないなどと言われるが、この神様がおられなかったら、闇夜にいつか必ず朝が来ると言う保証はどこにもない。だが、「光があれ」と御言葉を発するべく、闇の上を覆って待ち構えておられる神様がおられるから、どんなに暗い闇夜にも、必ず東の空から徐々に明るさを増して、光が差し込む朝が来る。長く続く失意や深い悲しみの日々が続いて、たとえ光の一筋さえ見えない闇に覆われる事があっても、時に明けない夜もあると言いたくなるような事があっても、そこにも光をもたらす事を喜ばれる神様がおられる以上、神様が朝を来させてくださる。そう信じて、力を与えられたいものである。
 最後に5節に「夕があり、朝があった。」とある。普通、朝があって夕がある、というところだが、聖書は夕があり、朝があったという順番になっている。闇から光へ、夜から朝へ、という順番。この箇所について、ある聖書日課に次のような文章があった。「人は朝から夕にかけて活動する。朝日に包まれて働き出し、やがて黄昏(たそがれ)の中に肩を落として帰る。人ばかりでなく、すべて希望の中に躍り出し、次第に暗闇を背負って老い衰えていく。しかし、創造主の日は、夕から始まる。夕影の中から夜陰(やいん)を通して光明は次第に蓄積され、時々刻々その輝きを発していく。光を増していく。一方、人の計画は笛や太鼓で華々しく幕を開けながら、やがて声も途絶えて消えていく。他方、神のご計画は暗黒のただ中から始められ、次第に明るさを増してゆく。今日、失意のドン底にある者よ。この神の創造の御手を、あなたの人生に認めよ。そして、いっさいの終わりの日に輝きわたる大栄光のほどを望み見よ。」(小畑進著「今日の力」いのちのことば社より)
 夕の後に朝が来る。朝が来るのを待ちきれずに、勝手に、神なんているか!とか、もう神なんか!などと性急な判断をしてしまわないように。明けない夜はないのだ。そのような状況にいる方がおられるならば、その方々に朝を迎えるまでの忍耐を与えてくださいますようにと祈りたいと思う。

Cそして最後に、創世記はこのあとの3章で、アダムの堕落の記事がある。それから人類の歴史は、いわば長い長い闇夜が続く。人の世に罪が入って以来、人は死ぬべき存在になってしまった。また人の世には、殺人、姦淫、争い、等々が渦巻くところとなってしまった。深い闇の支配する夜である。しかしその闇を吹き払うべく、今から約2千年前に、救い主キリストが神様から遣わされた。キリストは信じるすべての人に、罪の赦しを与え、永遠のいのちを与え、永遠の神の国を受け継ぐ特権を与えてくださった。そしてやがてくるその時には、永遠の御国に自分の二本の足で立ち、神様と兄弟姉妹たちといっしょに永遠に喜ぶという、永遠の祝宴の時が来る。地上の生涯の後に、永遠の御国の朝を迎えるという希望も見失わないようにしたいものである。