礼拝説教要旨(2018.04.22)
死に打ち勝ったキリスト =ハイデルベルク信仰問答= 問答:45
(コリント第一 15:12〜20)

『第二部 人間の救いについて:子なる神について      第17主日
問45 キリストの「よみがえり」は、
   わたしにどのような益をもたらしますか。
答  第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、
    そうして、御自身の死によって
    わたしたちのために獲得された義に
    わたしたちをあずからせてくださる、ということ。
   第二に、その御力によって
    わたしたちも今や新しい命に呼び覚まされている、
    ということ。
   第三に、わたしたちにとって、
    キリストのよみがえりは
    わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの
    確かな保証である、ということです。

 「死にて、葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と、十字架につけられたキリストに関して、死から、よみがえりまで、使徒信条において、丁寧な告白が続く。十字架の苦しみはもちろん、陰府の苦しみも、キリストは私たちに救いの恵みをもたらすために、それらを忍ばれたのであった。その上で、キリストの死は、それで終わることなく、三日目の「よみがえり」という、「大転換」を迎えるのである。死からのよみがえりなしに、私たちがキリストを信じることは、全く意味なしとなる。問45は、「よみがえり」は、一体どんな益をもたらすのか、と問う。

1、キリストの「よみがえり」がもたらす益の第一は、何よりも先ず、死に打ち勝たれたことであって、御自身の死によって、私たちのために獲得された義を、私たちに与えて下さった、ということにある。イエス・キリストが十字架で死なれたことは、全世界の人が等しく認めている、歴史上の出来事である。恐らく、否定する人はいない。しかし、「よみがえり」になると、たちまち意見が分かれ、多くの人がこれを否定する。けれども、最初の弟子たちは、キリストの復活の目撃者となり、彼らは「復活の証人」となって、福音を全世界へと宣べ伝えた。キリストは死に打ち勝たれた。そして、御自身が獲得して下さった義、すなわち「神の義」を、信じる私たちに与えて下さったのだ、と。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25) キリストの死と死からのよみがえりは、私たちに益をもたらす、神の特別なご計画によるものであった。私たちは、このことを知ることによって、いよいよ主なる神の恵みとあわれみを悟ることができる。十字架の死も、死からのよみがえりも、私たちに益をもたらすために、神の永遠のご計画によることなのである。

2、第二の益は、死に打ち勝たれた、その御力によって、「わたしたちも今や新しい命に呼びさまされている」という事実である。キリストを信じる者は、キリストが死んでよみがえられたように、罪に死んで、義に生きる者とされている。私たちも、キリストを信じて、新しい命に生きる者とされたのである。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。・・・。」(ローマ6:4-5)そして第三の益は、「キリストのよみがえり」は、私たち自身の「祝福に満ちたよみがえりの確かな保証」となることにある。キリストがよみがえられたので、私たちもまた、必ずよみがえるとの、確かな希望をもって生きることができる。紀元一世紀の聖徒たちは、この希望を抱いて、明確な確信をもって生きることができた。キリストの復活の証人が幾人もいて、彼らは力強く語っていた。語らずにはいられず、証ししないではおれなかった。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:20)彼らは、実に正直に語り続けていたのである。

3、けれども、時間の経過とともに、キリストの復活について、これを否定する考えが教会の中にも広がり、そのことにパウロの心は痛んでいた。キリストの十字架と復活は、キリストを救い主と信じる信仰の中心だからである。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。・・・あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか・・・・」(12〜16節)十字架は、多くの人の躓きとなっていた。そして、復活、死者のよみがえりは、もっと多くの人の躓き、そのもとなっていた。今日も同じである。しかし、キリストの教会にとっては、キリストのよみがえり、死からの「復活」こそがカギである。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。・・・・・もし、私たちがこの世にあって単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(17〜19節)キリストの復活がないなら、全世界のキリスト教会は、有りもしないこと、全く無意味なことのために時間や労力を費やす、偽りの教えを振りまく、いかがわしい集団と成り果ててしまう。けれども、キリストのよみがえりは確かなことであった。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20節)

<結び> 私たちの救い主、主イエス・キリストは、十字架で身代わりの死を遂げることによって、死に打ち勝たれた。「死にて死に勝ち、ハレルヤ」と歌う通り、御自身の死をもって、死に打ち勝ち、私たちに復活の命を保証して下さったのである。私たちは、日曜日を「主の日」として、復活の主を仰いで、神の御前に集っている。主の日の礼拝を尊ぶのは、復活の希望に生きる証しである。しかも、礼拝に集うごとに、私たち自身をささげているわけで、喜びと感謝をもって礼拝ささげている、この事実に、私たちが罪を離れ、義に生きている証拠を見出すことになる。この不思議を見ることによって、私たちは、神の御業を見て、感謝に導かれる。かつては罪の中に死んでいた者が、今や神を喜び、神の前に出て、神を賛美し、キリストにある聖徒たちとの交わりを喜び、教会の交わりの中にいる。死に打ち勝たれたキリストが私たちと共におられるからこその、教会の交わりである。やがての救いの完成を望み見ることができるのも、死に打ち勝ったキリストがおられるからである。この信仰に支えられ、この週も歩ませていただいたい。