『第二部 人間の救いについて:子なる神について 第16主日
問40 なぜキリストは 「死」を苦しまなければならなかったのですか。
答 なぜなら、神の義と真実とのゆえに、神の御子の死による以外には、
わたしたちの罪を償うことができなかったからです。
問41 なぜこの方は「葬られ」たのですか。
答 それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです。
問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、
どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。
答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、
むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです。
問43 十字架上でのキリストの犠牲と死から、
わたしたちはさらにどのような益を受けますか。
答 この方の御力によって、わたしたちの古い自分が
この方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです。
それによって、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、
かえってわたしたちは
自分自身を感謝のいけにえとして、
この方へ献げるようになるのです。
問44 なぜ「陰府にくだり」と続くのですか。
答 それは、わたしたちが最も激しい試みの時にも
次のように確信するためです。すなわち、
わたしの主キリストは、
十字架の死とそこに至るまで、
御自身もまたその魂において忍ばれてきた
言い難い不安と苦痛と恐れとによって、
地獄のような不安と痛みから
わたしたちを解放してくださったのだ、と。
4月1日にキリストの復活を特別に祝う「イースター礼拝」をささげたが、週の初めの日、「主の日」ごとの礼拝は、いつもキリストの復活を記念してのものである。と当時に、私たちは、キリストの十字架の御業があって、死からの復活、よみがえりがあったと信じて、礼拝をささげ続けている。代々の教会は、キリストが再び来られるまで、キリストの死を伝え続け、死からのよみがえりを証しし続け、礼拝をささげている。今朝は、ハイデルベルク信仰問答に戻り、問答40〜44に目を留める。十字架につけられたキリストの「苦しみ」は、何のため、また誰のためのものか・・・が続く個所である。
1、キリストの「苦しみ」は、キリストを信じる私たちの「体と魂とを永遠の刑罰から解放」して下さるためであった。また私たちのために、「神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした」と、問答37で言われていた。キリストは私たちのため、私たちに救いの恵みを与えるために、苦しみを受けられたのである。その苦しみの先にあったのは「死」であり、なぜ「死」の苦しみを味わわれたのか。それは「神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです」と、問答40は答える。罪を取り除くための代価は、御子の死による以外にはなかったのである。本当に死なれたので、キリストは墓に「葬られ」たのであった。キリストの復活について、仮死状態のまま葬られたので、墓の冷気によって息を吹き返した、と考える人たちがいる。けれども、使徒信条は、十字架で死なれ、そして葬られた主こそ、私たちの「救い主」と告白する。そのように信じて告白することが大事となる。「この方が本当に死なれたということを証しするためです。」(問答41)
2、続く問答42は、キリストが私たちの身代わりとなった死なれたのなら、私たちが、いずれ実際に死ぬのは、一体どうしてなのか。死ななくても良いのではないか・・・との問と、それに対する答えである。答「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです。」「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命です。」(ローマ6:23) 私たち人間は例外なく、罪から来る報酬としての死、肉体の死を免れることはできない。そうだとしても、キリストが私たちに代わって、十字架で死なれたのは、私たちを罪ゆえの縄目から解き放つためであり、救いの恵みに導き入れて下さるためだったのである。私たちの死は、罪のために死ななければならないものではなく、「むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです」と言われ、救いの完成の始まりと言うべきことなのである。最早、決して罪を犯すことのない状態の始まり、そのものである。肉体の死は、文字通り「死」であっても、キリストにある者の死は、「永遠の命への入口」と言われるとは、何と幸いなことか!
3、そのことを悟るなら、キリストを信じる私たちは、今、この地上にあって、上よりの大きな祝福に与って生きることができる 問43「十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受けますか。」答「この方の御力によって、わたしたちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです。それによって、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、かえってわたしたちは自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになるのです。」罪に死んで、義に生きること、罪の奴隷であった者が、罪から解放され、神の奴隷とされるのであって、(ローマ6:6-11、17-23) 神を喜び、感謝をもって、自分を神に献げるようになるのである。主の日ごとに、神の前に出て礼拝をささげるのを喜びとする、この事実こそが、救いに与った証拠である。問答44が更に続く。「陰府にくだり」とは、何を指すのか。それは、「わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです。・・・」と。陰府に下られたキリストを仰ぎ見ることによって、すなわち、十字架の苦しみを極みまで味わわれたでけでなく、ご自身の全生涯において苦難を忍ばれたキリストを信じることによって、「地獄のような不安と痛みから わたしを解放してくださったのだ」と、心から確信ことができると言う。苦しみに極みを忍ばれたキリストがおられるので、私たちは心強く歩ませていただけるのである。(7〜10節)
<結び> 「地獄のような不安と痛みから わたしたちを解放してくださったのだ」と言われる、その「不安と痛み」とは、一体どのようなものであろう。私たち人間にとっての一番の「恐れ」は、やはり「死の恐れ」に違いない。人は皆死ぬのだから、別に死は怖くない・・・と豪語する人がいる。人それぞれと言えばそれまでであるが、それでも「死」の事実は、全ての人に容赦なく迫る。死で、全ては終わるのだろうか。そうではない。聖書は、死後の裁きを明言する。キリストを信じない者の死は、永遠の滅びへの入口である・・・と。(マタイ25:46、ヘブル9:27) けれども、「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです。」キリストにある者の死は、死から命への、一大転換をもたらす入口、と。キリストご自身が、死を打ち破られたからこそ、私たちも死から命へと移される、その確かな希望に生きることができる。死の恐れから解き放つために、キリストは十字架で苦しみを受けて下さり、その苦しみを忍ばれ、死んで、葬られ、陰府に下られたのであった。キリストの十字架の死と、死からのよみがえりを信じる信仰に、しっかり立つことができるように。
|
|