礼拝説教要旨(2018.04.08)
神と言えば、、、?
(創世記1:1)横田 俊樹師

@今日から、聖書全66巻の最初の書、創世記を順番に見ていく。聖書を手にして、ページをめくって本文の最初にお目にかかるのが、この創世記。ここには、世界の始まり、人間の始まり、夫婦の始まり、そして夫婦と言えば、切っても切れないのが夫婦げんか。そんなものの始まりなんてものまで書いてある。また罪の始まり、罪のもたらした悲惨、死の始まりも書かれているが、そこに間髪を入れずに神様の救いの約束の始まりが記されている。創世記は全聖書の土台となるところであり、聖書を理解する上での大きな枠組みを提供している書である。

Aその創世記の中でも一番最初の言葉。「初めに神が、天と地を創造した。」天と地というのは、要するにすべてと言うこと。頭のてっぺんから足の先まで、で体全体を表すように、天と地で、その間にあるすべてのものも含めて、一切合切、存在するありとあらゆるもの、ということ。全宇宙も、この世もあの世も、存在する全てのものは、はじめっからたまたまあった、と言うのではなくて、又たまたま、発生した、と言うのでもなくて、ある御方によって、丹精込めて造られた、と言うこと。全くの無から、全くなんにもない状態から、神様がこの、歴史の舞台となる地球も宇宙もありとあらゆるものをお造りになった。聖書は推論とか、理屈とかを一切省略して、いきなりこの宣言を私達の前に突き付けて、展開して行くこととなる。

B人はおよそ、物心つくと、この世界はどこまで続いているんだろうとか、いつ、どうしてできたんだろうとか、この世界の起源というものに疑問を抱き始める。この世界の起源、ひいては自分という存在の起源にも通じるのだが、ありとあらゆる存在するものの起源はどうだったのか。どうして今あるものはあるようになったのか。その問いに、聖書は先ずその第一声で応えていた。
 世界中にあるどこの民族にも、世界の起源に関する神話があるという。例えば我が日本の、日本書紀などでも、いくつかの説が紹介されているそうだが、たとえば、昔昔、大昔、まだ天も地も分かれず、陰陽、分かれない混沌としたところに、葦の芽のようなものがぼこぼこっと出てきて、そこから初めの神々が出てきた、と言うようなことが書かれているという。聖書の記述とちょっと似てもいるが、しかしやはり根本的なところは全く違う。日本書紀はいきなり、初めから混沌というのがあって、そのなかから、神々が出てきた、産まれてきた、と言うのだが、聖書はしかし、その初めの混沌も含めて一切合財を神様がお造りになったという。聖書はやはり、初めに神様ありき。その神様がいわばすべてのもととなる混沌を造られた、と言うのに対して、日本書紀は、初めに混沌ありき。その混沌から神々が産まれ出た、と言うのである。日本書記の神々は、もとはといえば同じ混沌の固まりから出てきたものだから、言わば、神々もまたこの世界の一部でしかないのだから、何かの拍子のこの世界がなくなれば、その神々もまた世界と共に消滅してしまうということになるはずだが、聖書の神様は、たとえこの世界が消滅しても、厳として存在しておられる神様と言うことになる。この世界をお造りになった神様だから、この世界を造る前にも神様はおられたし、またたとえこの世界が滅びることがあっても神様は変わらずにおられると言うことになる。
 内村鑑三は「宇宙は大なりといえども、神の製造物に過ぎず。」と言った。この気が遠くなるような広大な宇宙も、神様の製造物の一つに過ぎない。一口に宇宙と言うが、宇宙のスケールの大きさと言ったら、少し調べてみただけで気が遠くなる。たとえば、地球の大きさを直径1センチ、パチンコ玉くらいだとすると、太陽の大きさは約1メートル10センチとのこと。そして宇宙には直径がその太陽の百倍、千倍、体積にすると何億倍だそうだが、それくらい巨大な星があるという。それも、神様がお造りになったものである。また、よく言われることだが、光の速さは、1秒間に約30万キロメートル。これは1秒間に地球を7周半する速さ。仮に、光の早さで飛べる飛行船が発明されたとして、その高速艇に赤ちゃんのときから乗って、一生の間、ひたすら宇宙の果てを目指してドンドン進んでいったとしても、それでもまだ、宇宙の果てには届かない。(光速に近くなると、時間の進み方が遅くなるという相対性理論の話はややこしくなるので置いておいて。)否それ処か、子供や孫の代までその光速で飛ぶ飛行船に乗ってひたすら宇宙の果てを目指して一生飛び続けたとしても、未だ未だ程遠い。何しろ何億光年という、光の早さで飛んでも何億年も掛かるほど、遠い所にもまだ、星があると言うのだから、弥生時代から現代まで、一生ただひたすら宇宙の果てを目指して飛び続けたとしても、到底追い付かない。アンドロメダ大星雲などは、230万光年とか250万光年など先にあると言われる。そんなところに、アンドロメダ大星雲を造ったのも、神様。宇宙はもちろん、それよりも広いわけである。そんな気が遠くなるような広がりを持つ宇宙も、聖書の示す神様がお造りになった一つの被造物に過ぎないのだ。どんなに神様と言う方は、スケールの大きな御方なのだろうか。神様は文字通り、全知全能。ひとくちに全知全能と言うが、本当にこの全宇宙をお造りになったほどの知恵と力をお持ちの方なのだと改めて覚えたい。

Cこの神様を知ってから、少なくとも、狐が化けた神とか、何か特別なことをした人間などを祭り上げて神にするなどと言った、スケールの小さな神など、馬鹿らしくて到底本気で神様などと呼ぶ気にはならない。何らかの御利益があったからと言って、そんなものを神と呼ぶ気にはならない。悪霊でも、人を惑わすために、一時的なご利益を与える事はある。大宇宙は愚か、太陽一つ、月一つ造って、天空に掲げることのできないものは、到底神と呼ぶに値しない。神と言えば、天地を造られた神様である!

Dそしてそして、ここにきて改めて心に思い浮かぶことが一つある。これほど想像を絶する偉大な神様が、何と何と、私たち人間を愛してくださって、私たちのために人となって十字架にまでかかってくださったのだという事である。なんと恐れ多い事か。私たちの罪のために、神の御子ご自身が天を蹴って人となって地上に降り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださった。それは、私たちが罪赦されて、永遠のいのちを与えられ、神様とともに喜びのうちに永遠の御国に生きるようになるためだった。そのことを聖書はこの後、最後の黙示録に至るまで、書き記している。
 先週、私の牧師就職式が行われたが、その中で牧師は「神の御国における主イエスの祝宴に連なる希望を指し示していかなければなりません。」という言葉があった。神の御国における主イエスの祝宴に、私たちは一人一人、招かれているのだ。その喜びの時が待っていることを望みとして、地上で主にお従いする歩みを歩んでいくのである。地上の旅路は悲喜こもごも。そこには喜びもあるが、時に試練もある。試練の時に支えとなるのが、希望ではないだろうか。月曜から金曜までの仕事の方だと、金曜日くらいになると、あと一日だ、頑張ろう、ということがあるのではないだろうか。あるいはちょっと先に、旅行でもおいしいものを食べに行くでも、何か楽しみがあると、ちょっと大変な時でも、これが終われば〇〇に行ける!とちょっと元気が出たりするものだろう。楽しみがあると、希望があると、力がわいてくるものだろう。そのように、神様がご用意くださっている楽しみ、喜び、すなわち主イエスの祝宴に連なる希望も、本当は、私たちに力を与えてくれるもののはずである。実際、私たちよりも、神様の方がその時を楽しみに待っていてくださっているのだと思う。イエス様は、その喜びのために十字架の苦しみをものともせずに、耐え忍ばれたのだから(ヘブル12:2)。

E神と言えば、天地を造られた神様。全宇宙を造られた神様。そして私たちを愛して、ご自身の方から命を捨てて十字架にまでかかってくださった神様。そしてそこで終わりではなくて、イエス様が事実、三日目に復活されたように、私たちに永遠のいのちを与え、永遠に喜びに満ちた神の国の祝宴を用意して、招いてくださっている神様。そこで私たちと永遠に共に生きることを何よりも楽しみにして待っておられる神様である。