礼拝説教要旨(2018.04.01) =イースター=
キリストはよみがえられた
(ヨハネ 20:1〜10)

 罪のない方としてお生まれになった主イエス・キリストは、罪のない方として地上の生涯を歩まれ、罪のないまま、十字架の苦しみを余すところなくお受けになった。そして、父なる神の御怒りを一身に背負って息を引き取られた。罪ある私たちのために、身代わりの死を遂げられたのである。苦しみの極みは、父なる神の御怒りを受けることにあり、神に見捨てられることにあった。そのためにこそ、神の御子が人となって世に来られたのである。けれども、キリストの死は、それで終わりではなかった。墓に葬られた御子を、父なる神がお見捨てになることはなかった。(詩篇16:10)神の救いのご計画は、いよいよ明らかにされる。十字架の死から三日目、週の初めの日の朝、主イエス・キリストが葬られた墓に、キリストの亡骸はなく、キリストはよみがえられた。

1、私たち人間が、自分の知識や理性を働かせ、また経験や感性を根拠にして考えたとしても、到底信じられないのは、キリストの処女降誕であり、キリストの復活であろう。理屈で納得しようとしても、処女降誕も復活も、それは無理である。けれども、聖書はこれらについて、淡々と事実を述べている。週の初めの日の朝、マグダラのマリヤは、まだ暗いうちに墓に来た。他の婦人たちと共に、慌ただしく、やり残した葬りのことを、もう一度、心を込めてしたい、とやって来た。果たして大きな墓石を動かせるのか、心配しながら墓に着くと、その石が取りのけてあるのを見て、驚くばかりであった。(1節)

2、大慌てで、ペテロたちのいるところに来て、「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません」と、そのように言うしかなかった。(2節)主イエスの身体、亡骸がない、墓は空っぽという事実に驚き、戸惑うしかなかった。墓には、兵士たちが番人として付けられていた。もし誰かが盗み出そうとしたなら、たちまち捕えられるよう厳重な警備の下にあった。もちろん、弟子たちにはそんな勇気はなく、ただただ恐れて、一か所に集まり、息を潜めていた。婦人たちの知らせに驚いて、ペテロとヨハネが駆け出し、墓に向かって行った。ヨハネが先に着き、ペテロも追い着き、二人は中に入って、そこに、身体に巻かれていた亜麻布と、頭に巻かれていた布きれが残されているのを見た。(3〜8節)主イエスの身体は、その墓にないことを見届けた。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」主はよみがえられたとは、とても思えず、また信じるなんてできず、けれども、身体はそこにない事実を、認めないわけにはいかなかったのである。(9〜10節)

3、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われた主イエスは、その言葉の通り、死んでも生きられた。死からよみがえられた。イエス・キリストにとって、死は、再びいのちに生きる、その出発点であった。すなわち、キリストは死につながれることなく、墓はキリストを留め置く場所ではなかった。空っぽになった墓は、キリストはもうここにはおられない、キリストはよみがえられたとの、力強いしるしであった。ペテロをはじめ弟子たちは、キリストがよみがえられたこと、復活を、なかなか本気で信じることはできなかった。考えもせず、期待もしていないことだったからである。肉体の死によって、一切が閉ざされるわけであり、その先のことは、誰一人考えたこともなかった。しかし、キリストは、先ずマリヤに姿を現し、次にペテロに、そして弟子たちのいるところに現れて、一人また一人と、復活を信じる人を増し加えて行かれた。キリストのよみがえりを信じる人々は、今日に至るまで、世界中で起こされている。私たちもその一人に加えられていて、それは不思議中の不思議、そのものである。

<結び> 主イエス・キリストは、十字架につけられ、死んで葬られた。けれども、三日目に死からよみよみがえられた。よみがえられたキリスト、復活のキリストが生きておられるので、キリスト教会は今日に至るまで、世界中に、キリストの十字架と復活を宣べ伝えるのである。罪の赦しを与えられ、神との親しい交わりを喜ぶ者として、私たちも復活のいのちに生きる者とされている。肉体の死の後に、なお神と共に生きるいのちを与えられて生きることができる。死で全てが終わるのでなく、死の後になお生きるいのちを生きるという、確かな望みに、私たちは生かされるのである。キリストがよみがえられたこと、そこに私たちの信仰の拠り所があることを心に刻みたい。今、この信仰に踏み出したいと願っておられる方、その方には、特にお勧めしたい。今年のイースターにこそ、復活のキリストを信じて歩み出すように。その決心が導かれ、確かな喜びと平安に進まれますように。既に、この信仰に生きている人は、一層復活の望みを抱いて、この地上の日々を生き抜くこができるように。