『第二部 人間の救いについて:子なる神について 第15主日
問37 「苦しみを受け」という言葉によって、
あなたは何を理解しますか。
答 キリストがその地上での御生涯のすべての時、
とりわけその終わりにおいて、
全人類の罪に対する御怒りを体と魂に負われた、ということです。
それは、この方が唯一の償いのいけにえとして、
御自身の苦しみによって
わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、
わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを
獲得してくださるためでした。
問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」
苦しみを受けられたのですか。
答 それは、罪のないこの方が、
この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、
わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、
わたしたちを免れさせるためでした。
問39 その方が「十字架につけられた」ことには、
何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。
答 あります。
それによって、わたしは、
この方がわたしの上にかかっていた呪いを
御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。
なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。
「イエス・キリストを信ず」との告白の中身として、問答37〜39は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」に関する事柄である。罪のない方として生まれた主イエスは、罪のない方として、その生涯を歩まれた。ところが、その生涯の最後で、余りにも不当な「苦しみを受け」られたのである。それは一体なぜか、また何のためなのか。問答37は、そのことを説き明かしてくれる。
1、答「キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する御怒りを体と魂に負われた、ということです。
それは、この方が唯一の償いのいけにえとして、御自身の苦しみによって わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。」イエス・キリストは、地上の生涯の全てにおいて罪と戦い、悪魔の誘惑と戦っておられた。肉体の苦しみというより、魂に罪への誘惑が迫る中で、霊的な苦悩を一身に負っておられた。罪ある私たちのための身代わりの死を遂げるためであって、私たちの体と魂を永遠の刑罰から解放し、神の恵みと義と永遠の命を、私たちに与えて下さるためであった。キリストの苦しみがあって、私たちの救いの道が開かれた。罪に対する神の怒りを、キリストお一人でその身にに負われたわけで、全生涯が、罪の赦しのための身代わりであり、そのための苦しみだったのある。
2、続く問38は、そのキリストの苦しみについて、「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けたのは、なぜかと問う。答「それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでした。」私たち人間は、皆、例外なく罪ある者である。神の前に「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)神の裁きの座に立つ時、有罪とされる。その裁きの座で、無罪とされるために、キリストはピラトの前で、有罪とされ、刑罰を受けて下さったのである。その時、主イエス・キリストは、ピラトによって、はっきり「無罪」と認められていた。この事実の尊さを見落としてはならない。(4、6、12節)ピラトは板挟みの状況にあった。無実の者を有罪とするには、大きな躊躇いがあった。けれども、真実を貫こうとすると、民衆の敵意が自分に降りかかり、たちまち、自分の地位が脅かされることになりそうになった。キリストは、そんなあやふやな「ピラトのもとに苦しみを受け」られたのであるが、全く罪のない方が、罪ある者として裁かれたことによって、キリストを信じる私たちは、罪人に下される厳しい審判から免れさせていただいくのである。
3、そのようにして、キリストは「十字架につけられ」た。ただ死に追いやられたのでなく、十字架につけられたこと、そこには特別な意味があった。問39「その方が「十字架につけられ」たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。答「あります。それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。」私たち人間は、神の前に罪ある者であること、罪ある者は神に呪われた存在であることを、自覚しているだろうか。罪あるゆえに、悪を離れることができず、罪に罪を重ねても、神の前に悔い改めることをしないのが、私たち人間の罪の現実である。神を神として敬うことをしないで、神ならぬものを神として祀り上げて、結局は、自分を神として驕り高ぶることを止めない。この世の多くの事柄の奥底に、どうすることもできない「呪い」のあることを、私たちは認めないではいられない。十字架につけられたキリストは、そのような「呪い」を一身に引き受けて下さり、私たちを「呪い」から解き放って下さったのである。十字架のキリストを救い主と信じる信仰によって、私たちは、罪と悪魔から解き放たれ、魂の救い、真の平安と喜びが与えられる。この救いに勝るものはない。十字架につけられたキリストを仰ぎ見て、この方に従って歩む日々を送らせて下さいと、祈らずにはおられない。
<結び> 主イエス・キリストは、十字架につけられる前も、そして十字架の上でも、罪と戦い、悪魔の誘惑に立ち向っておられた。ピラトはイエスに、「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか」と言い、イエスを釈放しようとした。(10節)この時、悪魔は何としても、イエスに罪を犯させたいとしていた筈である。父なる神の御心に従い、十字架に向かって進む御子イエスと、身代わりの死を遂げさせてはならないとする悪魔のせめぎ合いがあった。十字架につけられてからは、「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と、人々の罵りが激しくなって行った。(マタイ27:40)身代わりの死がとん挫することへと唆しが続いた。けれども、主イエス・キリストは、罪の代価を支払う死を選び取って下さった。その死によって、私たちの上にのしかかっていた呪いが取り除かれ、罪は贖われたのである。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)こうして私たちに永遠の命が与えられ、神との親しい交わりが回復された。今週は=受難週=、次週はキリストの復活を祝う=イースタター=を迎えるこの季節、心新たにして十字架につけられたキリストを仰ぎ見ることを導かれたい。イエス・キリストこそ、私の主、このお方を信じて、このお方にお従いします・・・と。
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