『第二部 人間の救いについて:子なる神について 第14主日
問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とは、
どういう意味ですか。
答 永遠の神の御子、
すなわち、まことの永遠の神であり
またあり続けるお方が、
聖霊の働きによって、
処女マリヤの肉と血とから
まことの人間性をお取りになった、ということです。
それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、
罪は別にしては
すべての店で兄弟たちと同じようになるためです。
問36 キリストの聖なる受胎と誕生によって、
あなたはどのような益を受けますか。
答 この方がわたしたちの仲保者であられ、
御自身の無罪性と完全なきよさとによって、
罪のうちにはらまれたわたしの罪を
神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。
イエス・キリストは、「我らの主」、この方こそ私たちがお従いすべき、生ける真の神と、問答33と34は明らかに答えている。キリストは、御自身の血潮を流して、私たちを御自分のものとし、罪と悪魔から私たちを解き放って下さったからである。使徒信条によって信仰を言い表す時、一語一語、その意味を心に刻みつつ告白すること、その大事さを忘れないように。主イエスを信じることに関して、問35は、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤから生まれ」とは、どういう意味かと問い、その答が続く。
1、答「永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり またあり続けるお方が、聖霊の働きによって、処女マリヤの肉と血とから まことの人間性をお取りになった、ということです。それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪は別にしては すべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。」生きておられる「まことの永遠の神」が、神であるまま「まことの人間性」を取るため、これ以外に方法はない、道筋はない、唯一の手段として取られたのが、永遠の神の御子である方が、「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」るという仕方であった。100%神である方が、100%人間となるために、処女マリヤからお生まれになった。その時、聖書の約束の通り、ダビデの子孫として生まれること、但し、「罪は別にしては、すべての点で兄弟たちと同じようになるため」、神の救いのご計画は、これ以外には有り得ない道を備えられたのである。神の御子を、聖霊によって、マリヤの胎に宿らせ、罪のない人間としての誕生を迎えるようにと。一番大事なことは、罪なくして生まれ、罪なくしてその生涯を歩み、罪なくして十字架で死ぬ、それが罪からの救い主としての、欠くべからざる務めであった。
2、問36「キリストの聖なる受胎と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。」答「この方がわたしたちの仲保者であられ、御自身の無罪性と完全なきよさによって、罪のうちにはらまれたわたしのその罪を 神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。」「・・・私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(14〜15節)神の御子イエス・キリストは、罪のない方として、処女マリヤからお生まれになった。その神の御子の地上の生涯は、私たち人間が歩むものと変わりなく、ありとあらゆる罪への誘惑のある日々であった。主イエスの生涯においての戦いは、罪と悪魔との戦いであって、十字架の上で死ぬため、罪のない方が罪人の身代わりとなって死ぬことにあった。「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル4:14-15) 十字架で死なれたキリストは私の救い主、この方が私の身代わりとなって下さったことを信じます、と心から信仰を言い表す人は、その信仰によって、罪の赦しを与えられる。キリストの無罪性と完全なきよさをいただいて、心は平安に満たされるのである。
3、私たち人間は、どんなに罪を犯すまい、どんな誘惑にも負けまいと、心して、また懸命に生きたとしても、日々罪を犯し、弱さと愚かさに打ちのめされるばかりである。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10) いつの時代も、またどこの国にあっても、善良な人がいて、人々から敬われる人がいる。犯罪まみれの人ばかりで満ち溢れる時代は、そうそうはない。しかし、聖書の記述によれば、ノアの時代、洪水が襲う前の状況が思い当たる。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。・・・」(創世記6:5・・・)また、アブラハムの甥、ロトが住んだソドムとゴモラも、はなはだしく罪にまみれた町であった。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」(創18:20)そんな大変な状況とは違うとしても、今の時代にあって、私は大丈夫! 私は誘惑に負けない! 罪に勝利している! と言える人はいるのだろうか。犯罪からはかろうじて遠ざかり、いや遠ざけていただき、外面に表れることなく、人の目に留まることなく過ぎる・・・、そんな日々を歩ませていただいている。神の裁きの法廷に、ただ一人で立つなら、それこそ足が震え、一言たりと言葉がでないに違いない。言い訳は全く通じないからである。しかし、キリストを仲保者とし、この方に依り頼む者は、キリストにしっかり守られている。キリストの義が私たちを覆って下さるからである。
<結び> 主イエス・キリストを救い主と信じる者は、自分の罪ゆえの弱さや愚かさに、最早、決して打ちのめされることはない。罪を犯し、罪のゆえに心が責めらることはある。けれども、それによって、罪に定めれることはない。なぜなら、私たちは、既にキリストものとされている。私たちを、罪と悪魔の力から解き放つ、そのためにこそ、神の御子は、「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」たのである。それは、神の御子が罪のない者として生まれるためであった。そんなこと、あるわけない!と、白けたままで、キリストの前を通り過ぎるのだろうか。それとも、神が全知全能であり、神に不可能がないなら、神を信じて、思い切って歩み始めようと、心に決めるのか、そのどちらを取るのか。私たちは、何としても、罪の解決をいただいて生きるべきと思う。罪を罪とも思わず、永遠の滅びに向かうのか、また、罪に責められながら、恐れに包まれて生きるのか、それとも、罪の赦しをいただいて、心を安らかにされて、感謝をもって生きるのか。神の前に、心を明らかにして生きることこそ尊いことである。主イエス・キリストを信じる信仰に生きることを、思い新たにはっきりとさせ、天の御国を目指すことができるように。
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