礼拝説教要旨(2018.03.11)
羊飼いを見上げて
(詩篇23篇1~6節)

@ この詩篇は、神様と私たちの関係を、羊飼いと羊の関係にたとえている。羊というのは、ライオンや狼のような牙や鋭い爪があるわけでもないし、チーターやシマウマのように足が速いわけでもなく、象やキリンのように体が大きいわけでもない。サルのように木に登れるわけでもなく、鳥のように空を飛べるわけでもない。無力で、弱い動物である。おまけに、目も極度の近眼だそうで、すぐ近くしか見えないので、どこに草が生えているのか、どこに水があるのかも、見つけることができないし、目の前にあるちょっとした窪地に落ちてけがをしてしまう事もしばしばとの事。動物のくせにそんなので生きていけるの?と思ってしまう所だが、でも大丈夫。羊飼いさえ、一緒にいてくれたら何も困る事はない。羊飼いといつも一緒にいる事。羊飼いから離れない事。これが、羊にとって命綱。すべてはその一点にかかっていると言っても過言ではない。だから、何のとりえもないような羊だが、実は一つだけ、取りえがある。それは、自分の羊飼いの声を知っていて、聞き分けることができる、という事。これである。イエス様は仰った。ヨハネ10:27「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」イエス様の群れに属する者は、自然とイエス様の御声についていくものである。同じ福音を聞いてもある人は去っていき、ある人は信じて心に受け入れる。それはその人がイエス様の群れに属する羊だったのでイエス様の御声(福音)にひかれるものが初めからその人の心の内にあるからであろう。

A 冒頭「主は私の羊飼い。」と高らかに宣言する。主なる神様が羊飼い、自分は神様に属する一匹の羊。羊飼いの責任は、羊を養い、あらゆる危険から守る事である。とすれば、全知全能の主なる神様が、私たちの羊飼いであられるとは、なんと心強い事であろうか。神様には力不足やうっかりミスということはない。羊を守るという羊飼いとしての責任を完全に果たされる。事実、イエス様は仰った。ヨハネ6:39「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」またヨハネ10:28-29「10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

B さて、この詩篇の舞台であるイスラエル地方は、乾燥した地で青草も水も限られている。熟練した羊飼いはどの時期にはどこに青草が生えていて、どこに飲み水があるかを知っていて、群れをそこに導いてくれる。憩いの水のほとりも、わざわざ「憩いの」と付けているのは、安心して喉の渇きを潤すことができる状態だろうか。乾燥した地域では、いろんな動物が水を求めてやってくるから、野生の動物にとっては水場は危険とも隣り合わせなのだが、羊飼いに守られている羊は安心して飲むことができる。こうして弱った体を休ませ、栄養と水分を補給し、元気と体力を回復する。
私たちの肉体に必要な糧があるように、私たちの魂、霊にも糧があって、聖書の御言葉がその霊の糧と言われる。その御言葉の糧を食べて、魂を生き返らせる。主の御言葉、主の教えは、神様の愛と義が満ちている。この両方が魂の栄養として必要。どちらか一方を欠いてもそれは偏食になって、バランスが悪くなってしまう。義ばかり強調していると、律法主義みたいになったり、逆に愛ばかり強調しても、甘いものばかり食べさせられて育った子供みたいに不健全になるだろう。「神は愛である。しかし愛を神にする時、それは悪魔になる」とCSルイスという人は言っている。イエス様の十字架は、神様の愛と義が美しく調和していることを表している。どこまでも高くそびえる神様の義。神様のきよさ。それはどこまでもきよく、神聖不可侵である。と同時に、その神様の義ときよさを、1ミリたりとも妥協せず、しかも、罪ある私たち人間を救うために、罪なき、きよい神の御子が、私たち罪びとの身代りとなって死んでくださって、私たちの罪を取り除き、私たちに義を与えて、いのちを回復してくださった。そういう愛である。そこには犠牲が必要である、激しい痛みが伴うが、その痛みの大きさは神様の私たちに対する愛の大きさのあかしともなっており、またそのような愛だけが私たちの魂を本当の意味で目覚めさせ、心の底から罪から離れたいという願いを起こさせるものなのだろう。義というと堅苦しい、窮屈なイメージがあるかもしれないが、むしろ逆で、義は私たちを広々とした所に導いてくれるもの。たとえばうそをついたり、何か悪い事をしてしまって、それがばれないようにしている間は、ビクビクして心が窮屈に感じるが、そういうやましい事がない時は、心が広々としていられる。真の命、それに真の平安は、義の道に、義とともにある。だから主の御声は、私たちを義の道に導いて、魂が健やかで、強くなるようにされるのである。

C 「御名のために」とあるのは、私たちの側の何かによらず、つまり私たちの側の善(よさ)とか、私たちの側の熱心とか、私たちの側のきよさとかによらず、全面的に神様の側の御名の栄光のために、という意味合いだろう。気が変わりやすい人間の決心だとか、熱しやすく冷めやすい人間の熱心だとかにかかっているとしたら、どれほど心もとない事かと思うが、神様ご自身の「御名のゆえに」私たちを決してお見捨てにならない、という真理はありがたい事。私たちはクリスチャンになってからも、何度も失敗し、弱さゆえに罪を犯してしまう事がある。まじめにきよく生きようと願う人であればあるほど、いつまでたってもきよくなれない自分に嫌気がさしたり、時にはもう求める気力もなくなって投げやりになってしまう事もあるかもしれない。いくら神様が愛の方と言っても私がここまで罪深く醜いとはご存じなかったのではないか、いくらなんでももう神様もお見捨てになってしまうのではないか、、、。そんな時でも、ただ神様の御名のゆえに、私たちを決してお見捨てにならず、義の道に導いてくださるという真理は、最後の砦、支えである。神さまがご自分のものとされた者たちを、途中で面倒見きれなくなって投げ出したとなれば、神様ご自身の不名誉となる。だから、安心していいのだよ、と。不信仰な私たちが神様の守りを信頼できるためにと、ここまで言ってくださる主のお心遣い。

D 「死の陰の谷」は、昼なお暗く、悪い獣の出没するところか。闇が光を憎むように、神様に愛されている魂に、サタンはちょっかいを出してくる。しかしダビデは、大牧者なる主がともにおられるので、降りかかる災いを恐れないと言った。これまで「主」と三人称で呼んでいたが、ここにきて「あなた」と二人称に呼び方が変わっている。より親しく、感情のこもった言い方になっている。苦しい時、身の危険を感じる時ほど、より主を求め、主を近くに感じるもの。主もまた、そういう時ほど、近くにいてくださる。「あなたのむちとあなたの杖」とあるのは、むちは悪い獣を追い払うための道具、杖は、よく羊飼いの絵にでてくるような、上の方がクエスチョンマークみたいに丸く、フック状になっている大きな杖で、これは羊が脇道にそれたりしたときに引き戻すための杖のよう。羊は臆病なくせに強情で、自分の行きたい方に何が何でも行こうとするところがあるという。羊は、方向感覚がなく、帰巣本能がない珍しい動物だそうだから、そんな羊が群れからはぐれてしまったら最後、自分では戻ってくることができず、下手をしたら野垂れ死。だから羊飼いは、杖をもって、羊の脇腹を軽くたたいたりして、そんな羊を群れに戻す。ダビデ自身も羊飼いとして、何度もそういう事をしてきたのだろう。ダビデは、そんな、どこへ行ってしまうかわからない自分をも、面倒くさがらずにいちいち引き戻してくれる羊飼いの杖を慰めと思えた。主を否んで、それも三度も否んで、滅びの道をまっしぐらに転げ落ちていきかけていたペテロを我に返らせ、引き留めた鶏の声。姦淫の罪を犯し、さらにはそれにそれを隠そうとして忠実な部下ウリヤを戦闘の中で犬死するように仕向け、滅びの道をひた走っていたダビデを我に返らせ、引き留めた預言者ナタンの叱責の声。あるいは、戦時中、キリスト以外に神はないと言って投獄されたものの、あまりの苦しさに思わず転びそうになった所に、目の前の官憲から「まさか君は、君の神の名を否定したりはしないだろうね」と言われて思いとどまり、敢然と殉教の道に立ち返った信仰者もおられたという。みな、いのちの道、義の道からはずれて、滅びに突き進もうとしたところを、引き留めてくれた羊飼いの杖だった。

E その死の陰の谷はいつまでも続くのではない。その谷を抜けた向こう側には、圧倒的な勝利の祝宴の光景が待っている。5節は、場面が変わって、祝宴の光景。「私の敵の前で」というのも、いくつか解釈があるが、ここでは敵が縛り上げられて、捕えられて、完全に力を失った状態と取りたい。そして主ご自身が私たちのために食事を整えてくださり、頭に油を注いでくださる。ここの油は、香油と呼ばれる、さわやかな良い香りのする油で、当時、大変高価なものだった。特に、食事前は、食事の主催者がお客さんの額に香油を塗ることでに、中東の強い日射しと乾燥によって乾ききった皮膚に潤いを与え、気分をさわやかにしたという。そして「私の杯はあふれています」杯いっぱいというのでなく、それ以上の、あふれるばかり、杯に入りきらないほどの祝福が用意されているという。神様が、私たちに与えようとしておられるのは、私たちの限りある器に収まりきらない、あふれるばかりの祝福である。こうして羊飼いの御声に聞き従う羊たちは、自分の力でなく、羊飼いのゆえに、圧倒的な勝利者となる。(ローマ8:37)

F こうして最後6節。いつくしみと恵みの方が、私たちを追いかけてくるという。私たちは来し方を振り返ると、さまざまな失敗や悔い、あるいはやり残しがあるかもしれない。しかしそれらを神様の恵みと慈しみが覆ってくれる。なんとありがたいことではないか。今はまだ、なぜ?どうして?と思う事も、永遠の御国で永遠の視点で全てが明らかにされたときに、それは神様の真実な恵みだったということもあるのだろう。こうして神への感謝に満ちて、私たちを導いておられた声の主、目に見えない羊飼いなるお方の家に帰る事になる。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」慕わしい目に見えないお方、その慕わしい御声の主とともに、そのお方の家で永遠に住まう幸いが待っているのである。
エデンの園から迷い出たアダムとエバの子孫たる私たちは、みな、迷える子羊だった。そのままでは滅び行く運命だった。しかしそんな迷える子羊たる私たちを探して、連れ戻すために、大牧者なるイエス様は、天を蹴って地上に来てくださり、ご自身の命までも十字架上で捧げられて、私たちを義の道に、永遠のいのちの道に引き戻してくださった。第一ペテロ2:25「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」この全てにまさって偉大な良い羊飼いに愛され、導かれ、守られている私たちであることを覚えて、このお方を見上げて、新しい一週間に歩みだしたい。