礼拝説教要旨(2018.03.04)
金や銀ではなく =ハイデルベルク信仰問答= 問答:33〜34
(ペテロ第一 1:18〜21)(詩篇23篇1~6節)

『第二部 人間の救いについて:子なる神について      第13主日
問33 わたしたちも神の子であるのに、
   なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのですか。
答  なぜなら、キリストだけが、
    永遠からの本来の神の御子だからです。
   わたしたちはこの方のおかげで、
    恵みによって神の子とされているのです。
問34 あなたはなぜこの方を「我らの主」と呼ぶのですか。
答  この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、
    わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放し
    また買い取ってくださり、
    わたしたちの体も魂も
    すべてをご自分のものとしてくださったからです。

 使徒信条の全体は、三位一体の神を信じますとの信仰告白である。天地の創造主である父なる神を信じますに続いて、御子なる神、イエス・キリストを信じますについて、より詳しく、丁寧にふれ、最後に、聖霊なる神を信じますによって締めくくられる。御子については、問答29から52まで続き、私たちの信仰の核心が、「イエス・キリストを信ず」にあることが示されている。今朝の問答33と34も、私たちの信仰の大切な部分について、丁寧に触れられている。

1、主イエスを信じて、罪の赦しを与えられた私たちは、神の子とされたと、聖書によって教えられている。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)「神の御霊によって導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:13) 主イエスを信じる私たちは、罪に縛られた、罪の奴隷ではなく、信仰によって神の子とされるという、大いなる祝福の内にある。その私たちが、神の御子について、「独り子」と呼ぶのは、一体どういうことなのか、その疑問が浮かぶのは自然である。答は、「なぜなら、キリストだけが永遠からの本来の神の御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。」本来の神の御子は、主イエス・キリストだけである。このキリストの十字架の御業を信じた私たちは、神の恵みによって、「神の子とされる」特権を与えられるのであって、神に背いていた者を、神の子どもとして下さるのである。それは恵みと憐れみによる他には、全く有り得ないことなのである。

2、続く問34は、では、なぜ、私たちはこの方を「我らの主」と呼ぶのか、そのことに思いを向けさせてくれる。御子イエス・キリストのことを「主」と呼ぶのには、どんな意味が込められているのか・・・と。新改訳聖書で「主」と「主」の使い分けがなされている。太字の「主」と細字の「主」である。旧約聖書で「神」を指す「主」(ヤハウェまたはヤーウェ)、新約聖書で、その訳語となる「主」(キュリオス)は太字で表し、一般的な「主人」は細字で表している。イエス・キリストを「主」と呼ぶのは、単に「主人」という意味ではなく、イエスは「神ご自身」との意味であり、神であるイエス・キリストにこそ、私はお仕えします、お従いしますとの、心からの決意が込められている。イエス・キリストに対して、「私の主」、また「私たちの主」と私たちが告白するなら、そこには、イエス・キリストは私の神です、この方だけが私の主であり、お仕えするべき、本当の「ご主人です」との思いを、本気で込めることが求められている。その理由については、答によって明らかにされる。

3、答「この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放し また買い取ってくださり、わたしたちの体も魂も すべてを御自分のものとしてくださったからです。」私たちが「神の子」されるために、またイエス・キリストを「我らの主」と呼ぶ者とされるために、御子イエス・キリストの尊い血潮を流されていたのである。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(18〜19節)奴隷がその奴隷の身分から解き放たれるために、自分でできることはなかった。心ある主人が現れ、金銭の支払いがあって買い取られることになる。新たな主人が良い主人かどうか、奴隷には見定めることさえできない。それこそ受け身で、もっと不遇が待ち受けているかもしれなかった。けれども、神の御子は、金や銀ではなく、御自身の血潮を流して、罪の代価を支払い、すなわち、御自分の命を代価として支払い、私たちを罪と悪魔の支配から、全く解き放って下さった。私たちは完全な自由の中に招き入れられたのである。私たちの体も魂も、全てキリストのものとされたので、私たちは弱く愚かであっても、その弱さや愚かさを嘆くことはいらない、確かな救いに入れられているのである。

<結び> 「・・・銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」「金や銀ではなく」との説教題は、それだけ見ると、一体何のこと・・・?と、思われるかもしれない。この世で一番の価値は何なのだろうか。物質では、やはり「金」と言われるであろう。「金」「銀」「銅」と、巷は大騒ぎであるが、金も銀もやがて朽ちるものである。しかし、キリストの血潮は朽ちることはない。すなわち、罪なくして十字架で流された血潮、キリストの命以上に尊いものは、この世には決してない。その血潮によって贖われた私たちは、キリストのものとされ、神の子とされたのである。この方を「我らの主」「私たちの主」と告白する私たちを、主イエス・キリストは、どんなことがあってもお見捨てにはならない。ご自分の命をもって贖い、買い取って下さったので、全く確かな御手をもって、必ず支え、導いて下さる。この世にあって、恐れず、またたゆまずに、主に従う者とならせていただきたい。また、この同じ信仰に導かれる人が次々に起こされるのを願いつつ。