礼拝説教要旨(2018.02.25)
 配膳係の光栄
(ルカ9:10-17)

@ 今日の舞台、ベツサイダは、ガリラヤ湖の北側、ヨルダン川が流れ込む河口のあたりの東岸にある小さな町。他の福音書では「辺鄙なところ」とも言われている。休むにはいい所。ところが、人々はそれを許してくれなかった。他の福音書によると、イエスさま一行は船で行かれたが、群衆は徒歩でグルーッと湖の周りを歩いて、イエスさま一行の後をついていったという。イエス様を逃がしてなるものか、というこの熱心、この真剣さ。しかも、ある者は病気の不自由な体で、またある者は足を引きずりながら、一生懸命にイエスさまのあとを追いかけた。これをご覧になって放っておけるイエスさまではない。イエス様は、「喜んで」彼らを迎えられた。

 今日も、私たちがイエス様を求めて聖書を開き、また祈りの中で思いを天に向けるなら、この時のようにイエス様は「喜んで」私たちを迎えてくださる。傷を負った者、病を負った者、自分でも自分を持て余しているような者をも、イエス様はよく来たね、と喜んで迎えてくださる。医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です、私は、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです、と仰って。逆に、私たちが、イエス様のところに行かない事によって、イエス様に悲しい思いをさせてしまうのかもしれない。

A 夕方になった。が、イエス様は一向におやめになる気配がない。気を揉んだ弟子たちは、早く群衆を解散させるよう申し出た。この時の弟子たちの申し出は、常識的なもの。ところが、イエス様は「あなた方で、何か食べるものをあげなさい」と仰った。手元には五つのパンと二匹の魚しかなく、群衆は男だけでおよそ五千人である。どうしてイエス様は、こんな無理難題を仰ったのか?ヨハネの福音書によると、これはイエスさまが彼らを試して、こういったのだと言う。(ヨハネ6:6)彼らの「信仰を」試されたということか。人間的には不可能と思われること。だけども、こういう状況でもなお、天のお父さんが養ってくださるだけの力と、そしてご愛、ご厚意を信じられるか。この信仰のテストは率直に言ってキツイ。おそらく、1万人いたら1万人が落第だろう。もちろん、この時の弟子たちにも、そんな信仰はない。しかしイエス様にはある。イエス様は弟子たちの目の前で、天のお父さんの力と愛とを見せてあげ、また体験させた。人々は、病気を癒してもらって、ありがたい神様の教えも聞けて、おまけに夕食にまでありつけた。羊飼いなるイエス様に牧され、養われて、心も体も満ち足りた群れの光景、地上にある神の国の光景である。

B この幸いな光景をもたらしたのは、もちろん、イエス様。イエス様を通して神様が、わずかなパンと魚を祝福して、男だけで五千人もの胃袋を満たした。イエス様抜きに、このような恵みはない。しかし最後に覚えたいのは、弟子たちもまた、この奇跡の御業のために用いられていたという事。14節、16節、17節。イエス様が、人々を50人くらいずつ組にして座らせなさい、と言えば、そのように50人くらいずつ、組にして座らせる。イエス様が、パンを群衆に配るようにと与えられたら、その通りにイエス様から渡されたパンを右から左へと群衆に配る。それだけ。パンを増やしたのはイエス様。弟子たちがパンを増やしたわけではない。弟子たちは、イエス様から与えられたパンを配っただけ。誰でもできる事だろう。でも、その小さな奉仕を通して、イエス様が大きな奇跡を行われ、大群衆を満ちたらせたのだ。ここから今日、改めて教えられたいと思うのは、イエスさまに信頼して素直に従うことの大切さである。弟子たちも、最初イエス様に言われた時は、イエスさまがいったい何を考えていらっしゃるのか、わからないまま、とりあえずイエスさまの仰るとおりに従ってみたというところだろう。従った彼らは、驚くべき主の御業を見、御名をあがめる恵みにあずかった。主の配膳係の光栄である。ここで彼らが、「馬鹿らしい」と言って従わなかったら、この恵みにあずかることができなかった。

 私たちの何気ない奉仕、キリストに仕える小さな業が、実はキリストご自身のなさる大きな御業の一部を担っている。そう思うと、今日のところは、実は、やがて、全世界に出ていき、すべての人に福音を宣べ伝えなさい、という使命を与えられる弟子たちへの、信仰のレッスンであり、励ましだったのではないか、とも思われる。わずか12弟子で全世界を福音で満たす、なんてことどう考えても無理。しかし神様が、聖霊を遣わして、その業を推し進められるなら、話は別。人間には不可能と思われる事でも、神様にはどんなことでもおできになる。だから、ほんの一握りの弟子たちで、世界中のすべての人に福音を伝えるという使命に、目を回して、そんなこと無理、と不信仰にならずに、神様に信頼して、結果は神様にお任せして、自分たちはただ導かれるままに福音を宣べ伝えていけばいいのだ、、、。後から思い返して、弟子たちもそう思ったのかもしれない。

 昔、何かのテレビで見たセリフで、遠く大空を飛んでいる飛行機を指さして、小学校の先生が子どもたちに、あの大きなジャンボジェット機も、このたった一つのネジがないばかりに、動かないという事がある。たった一つのネジでは何もできなくても、そのネジがないばかりに大きなことができなくなってしまっている、ということがある、だから、みんな一人一人、クラスの中で役割をもった大切な存在なんだよ、というような事を言っていた。私たちも、この所沢の地、また近隣の地を福音で満たすために、主に導かれるままに、できることをして、主にお従いさせて頂きたい。私たちのお捧げするほんのささやかな従順の先に、主の栄光が現れる御業が用意されているのだろう。掃除する者の光栄、受付係の光栄、等々。それに祈り手の光栄というのもある。若者の祈りもよいが、人生の齢を重ねてこられた年配者の祈りも味のあるものである。言葉の巧みさではない。歩んできた人生からにじみ出てくるものがある。そして、それこそいのちのパンであるキリストを隣人に配る、福音の配膳係の光栄!飢え渇いた魂をまことのいのちで満たし、永遠のいのちを与える、まことのパン、キリストをお分かちさせて頂く光栄に浴するものでありたい。人を救うのはキリスト。私たちはただキリストをお伝えするだけ。そんな一人一人の小さな業の先に、全世界の人々が福音で満たされるという奇跡が成就するのだろう。そういう視点をもって、これからもイエス様にお仕えすることができれば、と思う。

C 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Tコリ 15:58 )