礼拝説教要旨(2018.02.18)=ハイデルベルク信仰問答= 問答:32
キリストのものとなる
(コリント第一 12:12〜27)

『第二部 人間の救いについて:子なる神について    第12主日の2 
問32 しかし、なぜあなたが「キリスト」者と呼ばれるのですか。
答  なぜなら、わたしは信仰によってキリストの一部となり、
    その油注ぎにあずかっているからです。
   それは、わたしもまた
    この方の御名を告白し、
    生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、
    この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、
    ついには全被造物を
    この方と共に永遠に支配するためです。

 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、・・・」と告白する「使徒信条」は、私たちの信じる信仰を、簡潔に、明快に、そして的確に言い表している。それは三位一体なる神を信じますとの告白そのもので、神の救いのご計画の中心が明らかにされている。すなわち、イエス・キリストを信じることに関して、より詳しく、より丁寧に触れ、「イエス・キリストを信ず」には、先ず、イエスこそ、父なる神から「油注がれた者」すなわち「キリスト」であり、「預言者・祭司・王であるキリスト」であることが説かれていた。続く問32は、キリストに守られ、支えられ、この方と共に歩む人々が、なぜ「キリスト」者と呼ばれるのか、その理由を問うものである。イエスを信じる者が、なぜ「キリスト者」「クリスチャン」と呼ばれるのかと問うている。

1、そもそも、イエスを信じて、この方に着き従って歩んだ人々のことは、新約聖書においては「弟子」と呼ばれている。使徒の働きの中で、エルサレムから、迫害を逃れ、散らされて行った弟子たちが、やがてシリヤのアンテオケの町で大勢の人々に福音を宣べ伝え、イエスをキリストと信じる人々が増えた時、その町で、弟子たちは、初めて「キリスト者」と呼ばれるようになった、と記されている。(使徒11:26) それは、弟子たちに着けられた「あだ名」のようなものであった。なぜなら、弟子たちは、事あるごとに「イエスはキリスト」「十字架で死なれたあのイエスこそ、信ずべきキリスト」と、町の人々の耳には、「キリスト、キリスト・・・」との音(ギリシャ語:クリストス)が、始終聞こえるのである。何かと言うと「キリスト」と口にする弟子たちを見て、「彼らはキリストさん」、あるいは「キリスト党の人々」「キリストに属する人々」と言うわけで、それ程に、キリストと結びついた人々、それが、イエスをキリストと信じる弟子たちの実態であった。では、そのイエスをキリストと信じる人々が、なぜ「『キリスト』者と呼ばれる」のか、その肝心なところ、それは一体何なのか、その答が語られる。

2、答「なぜなら、わたしは信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです。それは、わたしもまたこの方の御名を告白し、生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついには全被造物をこの方と共に永遠に支配するためです。」主イエスをキリストと信じて、この方に従う人々は、最早「キリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです」と言われる。すなわち、キリストと一体化し、キリストが歩まれたと同じように、私たちも歩む者とされている。イエスをキリストと信じる信仰を告白するのは、自分をこのお方におささげし、キリストが歩まれたように、私たちも罪や悪魔と戦い、救いが完成する時には、キリストと共に、全被造物を永遠に支配する、そんな尊い役割をも託されていることを、信仰によって、しっかり自覚するからである。キリストの一部となるとは、途方もないスケールの事柄である。キリストそのものであるかのように生きることを、実際にさせられることになる。私たちは、果たして、そこまでの自覚をもってこの地上の日々を生きているだろうか。改めて心を探られる思いがする。御国での救いの完成にまで繋がっているからである。

3、私たちが、信仰によって「キリストの一部」となっていることについて、パウロは、「キリストのからだ」である教会を例に挙げる。「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。・・・」(12節・・・・)一人一人は違っていても、私たちは皆、キリストに連なり、キリストのからだの一部としての役割を担って、この地上の日々を生きているのである。その日々には、罪や悪魔との戦いがあり、その戦いは時に激しく、意気阻喪しそうにさえなる。けれども、私たちは、自分の不完全さや弱さのゆえに打ち負かされることはない。キリストのものとされた私たちは、自分の知恵や力に頼るのではなく、キリストにより罪から解き放たれた者として、「自由な良心をもって罪や悪魔と戦い」、勝利することができるのである。それでも、この世での恐れや不安に私たちは襲われ、狼狽えることがある。その時は、主イエスの約束の言葉にこそ、しっかり依り頼む者となりたい。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあって患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

<結び> 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(27節)この言葉には、私たちクリスチャン、キリストを信じる者は、「キリストのもの」「キリストの所有とされたもの」、キリストを離れて、私たちの存在は有り得ないことが込められている。それで、私たちは「キリスト者」「クリスチャン」と呼ばれるのである。説教題を「キリストのものとなる」とした。「キリストの所有とされたもの」との自覚を深めたいと願ってそうした。私たち一人一人が、「キリストのものとなる」思いを、一層、明確にされたいと願ったからである。私たちは、もう既に「キリストのもの」である。これから「キリストのものになる」わけではない。けれども、どうしようかと、考えておられる方がおられるに違いない。その方がどのような決断をされるのか、キリストご自身は分っておられるとすると、私たち人間の側は、何を、どのようにしたら良いのだろうか。一つ言えること、それは肝心な決断を先延ばしすることなく、聖霊なる神の導きに従って、一歩踏み出すことである。もう既に「キリストのものとされている」なら、自ら「キリストのものとなる」決心へと踏み出されるよう勧めたい。そのようにして、「キリストのものとなる」ことの幸いを、この教会の一同で喜び合い、互いに覚え合い、愛し合う教会の交わりが、より確かなものとされるよう祈りたい。(26節)