礼拝説教要旨(2018.02.11)=ハイデルベルク信仰問答= 問答:31
預言者・祭司・王であるキリスト
(ルカ 3:21〜22)

『第二部 人間の救いについて:子なる神について    第12主日の1 
問31 なぜこの方は「キリスト」すなわち「油注がれた者」と呼ばれるのですか。
答  なぜなら、この方は父なる神から次のように任職され、
    聖霊によって油注がれたからです。すなわち、
   わたしたちの最高の預言者また教師として、
    わたしたちの贖いに関する神の隠された熟慮と御意志とを、
    余すところなくわたしたちに啓示し、
   わたしたちの唯一の大祭司として、
    御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを贖い、
    御父の御前でわたしたちのために絶えず執り成し、
   わたしたちの永遠の王として、
    御自分の言葉と霊によってわたしたちを治め、
    獲得なさった贖いのもとに
    わたしたちを守り保ってくださるのです。

 神の御子イエスは、「主は救い」との、その名が意味するように、神の前に罪ある私たちを、自分ではどうにもならない「罪」から救って下さるお方である。罪からの「救い主」「救済者」は、このお方以外にはない。私たちは、このお方こそを信じる信仰に導かれることを、宝のように大事にするよう心したい。信仰問答は、次に「イエス」を「キリスト」と呼ぶことに触れる。ともすると、私たちが「イエス・キリスト」と言う時、姓は「イエス」、名は「キリスト」のようなつもりでいるかもしれない。けれども、「キリスト」とは「油注がれた者」のことで、「イエスこそ、神に選ばれ、油注がれた者、特別なお方」という意味で「キリスト」と呼ばれ、「イエスこそキリスト、約束のメシヤです」という意味である。その「キリスト」には尊い使命が、父なる神から託されていた。※ヘブル語:メシヤ=ギリシャ語:キリスト

1、「イエス」こそ「キリスト」と、代々の教会が信じて止まないのは、このイエスの生涯の初めに、父なる神から聖霊が注がれ、特別な言葉がかけられていたからである。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「天が開け、聖霊が、鳩のような形をして」イエスの上に下られた。そして「天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(21〜22節)父なる神は、御自分の御子を、はっきり信任して、世に送り出しておられた。イエスは「聖霊による油注ぎ」を受けて、地上の公の生涯を歩み始めておられた。そのような、神による油注ぎを思わす具体例は、旧約聖書の時代には、預言者、祭司、そして王となる人に対して行われていた。いずれも神ではないが、神の代理人のような役割を担う尊い存在である。人々は預言者にすがり、祭司を頼り、また王に救いを託した。けれども、どんなに優れた預言者も、そして祭司も王も、民の期待に応えられず、人々は真のメシヤを待ち望むことによって、確かな救いを願うようになり、そのような時代に神の御子は生まれたのであった。そして、その御子イエスに、聖霊の油注ぎがなされ、父からの言葉があり、正しく御子が世に送り出された。それは、預言の成就としての出来事だったのである。(ルカ4:16-21、イザヤ61:1-3)

2、神の御子イエスは、私たち人間に対して「最高の預言者また教師として、わたしたちの贖いに関する神の隠された熟慮と御意志とを、余すところなくわたしたちに啓示し」て下さる方である。私たちは、キリストを通して、私たちのたましいの救いに関する、神の尊いご計画を知らされる。キリストに教えていただいたので、私たちの心は開かれたのである。また、私たちにとって、キリストは「唯一の大祭司として、御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを贖い、御父の御前でわたしたちのために絶えず執り成し」て下さるお方である。キリストが私たちの救い主であられることの一面は、裁き主なる神の前で、私たち裁かれるはずの者のために弁護し、仲立ちをして下さることにある。私たちが自分で祈れない時、この方が代わりに執り成して下さるとは、何と幸いなことであろうか。そして、キリストは、「わたしたちの永遠の王として、御自分の言葉と霊によってわたしたちを治め、獲得なさった贖いのもとにわたしたちを守り保って下さるのです。」私たちには、父なる神の万全な守りがあるばかりか、御子イエス・キリストの王としての守りがある。移ろいやすい人間の王の守りではなく、神である方、全く真実な王であるお方の御手で守られる。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの家には、住まいがたくさんあります。・・・」この言葉によって、私たちは大きな慰めと力をいただくのである。

3、主イエスは、「最高の預言者また教師」であると信じて、この方に従うことができるように。多くの教えを語られたイエスは、その言葉の通りを歩まれた。その言葉に偽りがなく、私たちはその言葉に従うだけでよい。また、主イエスは、「唯一の大祭司」であられる。ご自分を犠牲としてささげ、私たちの罪を贖って下さった。頼るべきは、このお方だけである。そして、主イエスは、「永遠の王」として、私たちを治めて下さる。旧約聖書で、ダビデこそ王と慕われていたが、その全てを肯定するのは難しい。ソロモンの知恵と栄華に勝る者は、未だ世にはいないであろう。けれども、そのソロモンもキリストに並ぶことはできない。私たちにとっては、王なるキリストの支配の中にいることの幸いに勝るものはない。キリストと共にある平安、喜び、これこそ私たちの救いの喜びである。私たちは、なお一層キリストの近くに進み出て、この方を知り、この方の教えに聞き従いたい。パウロのように、「私はキリストをともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。・・・」と言うまで、キリストにある者と成らせていたこうではないか。(ガラテヤ2:20)

<結び> 今日2月11日を、私たちは「信教の自由を守る日」として、毎年心に留めている。教会の歴史をよくよく覚えることとともに、この日本にあっては、この国がどのような歴史を刻んで来たかも忘れてはならない。決して忘れないようにしたいことの一つが、日本の歴史において、唯一の神を信じる信仰、特にイエス・キリストを救い主として信じる信仰に対しては、いつも激しい衝突があり、キリスト教会に対しての攻撃が強かった事実である。そして、教会は、その衝突を、真正面から受け止めなかったらしい事実である。預言者・祭司・王であるキリストのみを信じることにおいて躊躇い、この方のみに依り頼むとの告白を曖昧にしたのであった。今朝、私たちは、改めてこの方のみに従う信仰を固くされたい。キリストのみとの告白が導かれるように祈りたい。私たちの信仰が足もとから崩されることのないよう、堅く立つことを導かれたいものである。