『第二部 人間の救いについて:子なる神について 第11主日
問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。
答 それは、この方がわたしたちを
わたしたちの罪から救ってくださるからであり、
唯一の救いをほかの誰かに求めたり、
ましてや見出すことなどできないからです。
問30 それでは、自分の幸福や救いを
聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、
唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。
答 いいえ。
たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、
その行いにおいて、
彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを
否定しているのです。
なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、
そうでなければ、
この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、
自分の救いに必要なことすべてを
この方のうちに持たねばならないか、
どちらかだからです。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白する時、私たちは、神が天と地にある全てのものを無から創造されたこと、また全てのものを「永遠の熟慮と摂理とによって」治めておれること、その神は、私たちの「父」であられることを信じて告白している。そして、神の摂理を知ることによって、私たちはいかなる境遇にあっても、神によって守られ、支えられていることを、いよいよ確信するように導かれるのである。父なる神の御手の中にある幸いを、私たちは一層心に留めるよう促される。使徒信条の次の箇条は、「子なる神」についてである。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白する時、その意味をどのように理解しているだろうか。
1、問29「なぜ神の御子は『イエス』すなわち『救済者』と呼ばれるのですか。」答「それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできないからです。」主イエスの誕生をマリヤに告げた御使いは、「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」と命じていた。(ルカ1:31)また、マリヤを妻として迎えるのを躊躇っていたヨセフに、マリヤの身に起こっているのは聖霊によることと告げ、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と語った。聖霊による幼子の誕生とともに、その幼子の名は「イエス」と、念押しされていた。「イエス」という名は、当時の人々には馴染み深いもので、「主は救い」という意味があり、ヘブル語の「ヨシュア」が、ギリシャ語で「イエス」となる。正しく「救済者」「救い主」である。一体何からの救いをもたらすのか。ただただ漠然と救済と願うのは、世の常で、人の常であるが、この方がもたらす救いは、私たち人間を、その罪から救うことにある。罪からの「救済者」「救い主」なのである。代々の教会は、キリスト・イエスこそ罪人を救う方と信じて、今日に至っている。(15節)
2、では「罪」とは、一体何のことであろう。「わたしたちの罪」と言う時、私たちは、何を「罪」と理解しているのだろうか。一般的に、「罪」と言えば「犯罪」を思い、自分が「犯罪」を犯しているとは、なかなか思わない。けれども、聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と言い切る。「義人はいない。ひとりもいない」とも。(ローマ3:9-24) 聖書では、神に背を向けた人間は、全て神の前に「罪ある者」「罪人」として、神の裁きの前に立たされる存在である。この神の裁きの座において、罪の赦し与えて下さる方、すなわち「救済者」「救い主」であるのは、神の御子「イエス」、ただ一人である。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)神に背いた者を、再び神の前に相応しい者とするため、御子イエスが、十字架で身代わりの死を遂げられたのである。私たちを、神の前に聖い者とするため、十字架で死なれたのである。そのような救いを与えることができるのは、この方をおいて他にはおられない。それゆえ、「唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできないからです」と言われる。神の前での「罪」を、どれだけ認めるのかが問われる。
3、地上の教会は、この「唯一の救済者イエス」を理解することにおいて、大きな過ちを犯して来た。問答30は、その大切なことに触れる。すなわち、ローマ・カトリック教会において、十字架に架かられたイエス以外に、「聖人や自分自身やほかのどこかに求める人々」のいる事実を指摘する。やや厳しく、自分の幸福や救いを、イエス以外のものに求めるのは、「唯一の救済者イエスを信じていると言えますか」と問う。それに対する答えは、一層厳しいものである。「いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。」イエス以外に依り頼む何かを求めるのは、どんなにイエスを信じていると言っても、その行いにおいて、救済者イエスを否定していると断言する。イエスを完全な救い主ではないとするのか、完全な救い主と信じるのか、そのどちらかであると迫る。私たちも、どのように信じているのかが問われている。
<結び> たましいの救いが、信仰によるのか、それとも行いによるのかとの問い掛けは、古くて新しい大切な事柄である。それは十字架で死なれたイエスを救い主と信じるのか、そのお方以外の何かに頼るのかを問う、信仰の根本に関わる課題である。初代教会においては、「割礼」を巡って揺れ動き、パウロは懸命になって、恵みにより、信仰によって救われることを説いていた。(ガラテヤ3:1-6、エペソ2:8-9)そして自分のような者が救いに与ったのは、十字架の主イエスを信じたからであると心から感謝する。(16節)聖人を頼ったり、また自分の行いを拠り所としたり、今日においても惑わしは数知れない。奇跡を求めたり、目に見える繁栄を求めたりせず、心して、ただ一人の救済者イエス・キリストを仰ぎ見ることから、足を踏み外さないよう注意しなければならない。この会堂において、礼拝されるべきはただ一人の神だけである。その生ける真の神の前に進み出ることができるのは、唯一の救済者イエスを信じる私たちである。聖霊なる神に導かれ、主イエス・キリストこそ私の救い主と信じる信仰に、一層進ませていただきたい。主の御名にのみ栄光を帰すことができるよう祈りつつ。
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