『第二部 人間の救いについて:父なる神について 第九主日
問26 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱える時、
あなたは何を信じているのですか。
答 天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、
それらを永遠の熟慮と摂理とによって 今も保ち支配しておられる、
わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、
御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、
ということです。
わたしはこの方により頼んでいますので、
この方が体と魂に必要なものすべてを わたしに備えてくださること、
また、たとえこの涙の谷間へ いかなる災いを下されたとしても、
それらをわたしのために益としてくださることを、
信じて疑わないのです。
なぜなら、この方は、
全能の神としてそのことがおできになるばかりか、
真実な父としてそれを望んでおられるからです。
私たちクリスチャンが信じている肝心な事柄は、「使徒信条」に明らかにされている、と問答23で告白し、その中身は「三位一体の神を信じます」に集約されている、と問答24〜25が続いていた。そして「父なる神を信ず」の中身について問答26が続く。使徒信条の冒頭、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白する時、一体、何を、どのように信じているのか・・・と問い、その答が語られる。信条は、確かに暗記して、繰り返し唱えるものであるが、内容を理解し、意味を心に留め、心から唱えるのでなければ、それは空しい繰り言となる。私たち一人一人の心からの告白となるよう、その内容や意味を理解し、信仰が深められることを願うばかりである。
1、神を神として信じて、神を崇めるのは尊いことであるが、使徒信条では、その神は、「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され」た神であると、先ず告白する。しかも、その神が、「それらを永遠の熟慮と摂理とによって、今も保ち支配しておられる」と信じるとともに、御子イエス・キリストの永遠の御父であるだけでなく、私たちにとっても「父であられる」神と告白する。神を神として崇めつつ、その神は私の「お父さんです」という。造り主であり、全能である神を信じるのは、この神により頼む者にとって、これ以上ない拠り所である。何があっても恐れず、いかなる災いが襲うとしても、必ず神が、全てを益として下さると、信じて疑わない信仰へと進ませていただける。それは、造り主なる父が、私のために必要を備え、どんな時も、私を支えて下さると信じる信仰が養われるからである。「・・・なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでおられるからです。」(ルカ1:37、マタイ19:26)
2、「造り主」であり、「全能の父」である「神」という理解は、他に比べ得る「神」など、全くいないことを意味している。世の人々は、「神はいない」と言い切り、自分を神とし、自らを誇る。けれども、人間ほど不確かな存在はない。私たち人間は不真実で、全く不誠実と、正直に言うべきであろう。だから聖書は、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない」と、鋭く言う。「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:1-3)天地の造り主の存在を認めることは、聖書を理解する、第一歩であると同時に、最も大事な教え、根幹となるものである。創世記1章1節は、迷いがない。「初めに、神が天と地を創造した。」そして3節「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」神が「ことば」を発せられると、その通りになったのが、天地の始めである。その全能の神は、父として、私たち人間に目を注ぎ、手を差し伸べ、御子イエス・キリストを信じる私たちを、子として下さり、見守り、導いて下さるのである。
3、父である神が、造り主であると信じる時、この世界で起り来る全てのことは、神ご自身の「永遠の熟慮と摂理によって」保たれ、また治められていることに気づくことになる。すなわち、神の「ことば」によって造られた世界には、神のご意志が込められており、起こり来ることに「偶然はない」と、心から信じることができる。私たち人間の存在は、「たまたま」ここにいることではない。自分にとって「良いこと」、「悪いこと」、それらは「偶然」の出来事なのだろうか。「涙の谷間(悩み多い生涯)」ばかりが続くとしたら、それは一体、どうしてなのか・・・と、嘆きばかり口から出ることになる。けれども、造り主なる父が、その「ことば」をもって、この世界をお造りになり、「永遠の熟慮と摂理によって」、全てを治めておられるとするなら、いかなる災いさえも、私たちのために益として下さるのである。私たちは、神の最善を信じ、神に身を委ねることができる。天地の造り主なる父は、全能の神であり、ただ一人、全く真実なお方だからである。(ローマ8:28、31-34、37)
<結び> 神が「父」であることを、身をもって知るのに、果たしてどのようにするのが、より相応しいことであろうか。厳格な父親に育てられた人は、その父親像を神に重ねるかもしれない。心優しい父親の場合は・・・とか、反対に非情な父親のもとで苦労した・・・とか、人によって父親像はいろいろであろう。しばしば、現実の父親を知らないので、かえって「父なる神」の愛に心を打たれる・・・ということが言われる。けれども、そうした全てを超えることとして、神を父として仰ぐことの幸いは、測り知れない。天地の造り主であり、全能者である神を父として、この方に守られ、導かれる者は、この世で、どんな恐れにも立ち向かうことができる。神の御手の守りは、最善にして、最強だかである。この方は、「体と魂の必要のすべてを」私たちに備えて下さるからである。そんな「造り主なる父」がおられることを忘れず、この方を見上げ、この方に従う者とならせていただきたい。
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