礼拝説教要旨(2018.01.14)
御名があがめられますように
 (マタイ6:9-13横田俊樹師)

(導入;この個所に導かれたいきさつ:新年礼拝の聖句からの流れ)
 毎年、お正月になると、初詣でにぎわう神社の光景がニュースで流れます。
皆さんそれぞれ、どんな願い事を願っているのでしょう。

家内安全、商売繁盛、合格祈願に恋愛成就、みたいな四文字熟語で表されることが多いのでしょうか。
ともかく一年の内でこの時ばかりは、皆さん神妙な顔をして手を合わせているのが印象的です。
私たちの教会でも、1月1日は新年礼拝を行いました。残念ながらいろんな事情で来られなかった方もおられると思いますが、個人的にそれぞれの場所で祈りの時を持たれた事と思います。

で、今年の新年礼拝では、詩篇115篇が読まれて、その中の1節が今月の聖句として、会堂の前の方に掲げられています。

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ、帰してください。」

この御言葉から、神様に栄光を帰すことの大切さを改めて教えられたのですが、その時に、柳先生がそこから説教されるのを聴きながら、
何か新鮮さをもってそのことが迫ってくる思いがしました。
そして後でそのことを思い巡らしていくうちに今度の説教は、主の祈りの中の第一の祈願「御名があがめられますように」という箇所がいいのかな、という思いに導かれました。先ほど、司会者の方には9-13節まで読んで頂きましたが、今日は9節の最後、「御名があがめられますように」という事についてご一緒に学んでいきたいと思います。

なお、新改訳2017では、「御名が聖なるものとされますように」と訳されているようですが、今日はみなさんが慣れ親しんでおられる「あがめられますように」というほうで、お話させて頂きます。

(T.問題提起;祈りは願いのあらわれ。御名があがめられることが、どれだけ自分の願いとなっているか。本来は一番の願いであるべき。私たち自身の身の安全のためにも。)

 「御名があがめられますように」ギリシャ語の原文では「あなたの」という言葉が付いていて「あなたの御名があがめられますように」となっています。 「あなたの御名があがめられますように」と、顔をグイっと天に向けさせられて、神様に向かって祈る。こういう祈り、日曜日以外に、いったいどれだけ口から出てくるかな、どれだけ心に思い浮かぶかな、と思います。
人によっては祈祷会にも出られてますから水曜日も、あるいは土曜日も、かもしれませんが。果たして教会以外の場所で、こういう願いが出てくることがどれだけあったかな、と省みてみると、なんだか普段はそれどころではない、という方も少なくないかもしれません。

だからこそ、せめて週のはじめに礼拝に集められて、一同でこの事を祈らされるというのも、意味があること思いますが。
 そもそも、祈りというのは、基本的には祈願、ですから、願いなわけです。

心に願っていることを、どうか、こうしてください、お願いします、と祈るわけです。そう考えると、神様の御名があがめられることを、願っているのかな? それが自分の願いとなっているのかな? それも、この主の祈りというのを見てみますと、イエス様はこの願いを第一の願いとして挙げていらっしゃいます。いの一番にこのことが出てきている。
けれども、自分にとって、神様の御名があがめられることが、一番の願いになっているのかな?と探られるのです。

 もちろん、私たちにはほかにもいろいろ願いはあるわけです。人生のその時その時のステージで、たとえば受験とか就職とか、あるいは結婚、出産、などなど、節目節目での祈りというものもあり、健康であるようにとか、家族が平和であるようにとか、身近な願いというのもあります。

病気の時には癒されるように祈りますし、試練の中にある時にはそのために祈ります。
私たちクリスチャンももちろん、そういう身近な願いを天の神様に祈ってもいいのですし、自分のために祈ってもいいんです。
主の祈りの後半は「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。」以下、自分たちのためにもこう祈りなさい、とイエス様が仰ってるくらいです。
そういう身近な願い、自分のための祈りを持ってはいけないというのでは、全然ない。ただ、一番の願い、人生を貫く根本的な願いは、神様、あなたの御名があがめられますように、という願い。もっと言うと、人間はそのために存在しているとさえ言える存在意義、存在の目的とも言えるのは、これ。神様、あなたの御名があがめられますように、という事なのです。そこを見失うと、迷子になってしまって、自分がどこに向かっているのか、何のために生きているのかもわからなくなる。何を求めているのか、自分でわからなくなってしまう。私たちは罪のゆえに、自己中心のゆえに、その事がわからなくなってしまっている事が多いのだと思います。

 昔の航海士は、広い海原を行くときには、北極星を目印にして自分の位置を確かめ、行くべき方向を見つけたそうです。そのように、広大な人生という大海原を行くときに、この「御名があがめられますように」という御言葉が指し示す方向に舵を切っていくべきでしょう。この目当てに向かっていけば、多少ぶれることがあったとしても、大きく間違う事はない。いや、たとえ仮に、一時的に迷子になったとしても、この御言葉を目印として、またそこに戻ってくることができるのでしょう。そういう意味では、イエス様はむしろ、私たち自身の身の安全のために、このことをまず第一に祈りなさい、と仰ってくださったのではないか、とさえ、思います。自分勝手な方向に歩きだしては迷子になってしまい、迷える子羊。もしかしたら、万年迷える子羊みたいな者にも、繰り返し繰り返し、少なくとも日曜日の朝ごとにはこう祈ることで、本来あるべき方向を向くことができるように、戻ってくるように、との、羊飼いとしてのお心のあらわれなのかもしれません。
(U.この願いが第一であることの理由@神様がそれにふさわしい方だから。)
 では、私たちが心から納得して、この事を願えるようになるため、ーただそうしなきゃいけないからという義務感でなく、自発的にそう思えるようになるためにー このことを第一の願いである理由を考えてみたいと思います。今日は3つ、挙げてみます。

@まず第一に、もう単純に、そのまま、神様がそれにふさわしい方だからです。
素晴らしい絵を見たら、ああ、素晴らしいと感動するのが自然な反応でしょう。素晴らしい音楽を聴いたら、ああ、素晴らしい、と感動するのが自然でしょう。あるいはまた、例えば誰かの偉人伝のようなものを読んで、その人の真実みたいなものに触れた時、感動して、その人を尊敬する思いが自然と起こるでしょう。
そのように、この世界を造られた神様は、すべてに勝って素晴らしいお方だから、そして誰よりも誰よりも真実な方だから、私たちの考えが及ばないほどに真実な方だから、全てにまさって第一にあがめられ、敬われるのが、当然なのです。
まずいものをうまいと言え、というのではないのです。おいしいものだから、おいしいというのが当然のことなのです。

問題は、私たちの側の罪のゆえに、霊的に盲目になってしまっているゆえに、そのことがわからなくなってしまっていることです。
素晴らしいものが、素晴らしいものであることがわからなくなってしまっている。
ですから、私たちの目が開かれて、もっともっと神様のすばらしさがわかるように、理解できるようにしてください、と聖霊の助けを祈り求めなければいけないのでしょう。
そういえば、新約聖書のパウロの書簡も、よくそのように、御霊によって目が開かれるように、という祈りがよく出てきます。
イエス・キリストの神様は、他のすべてに勝って、全身全霊で、すべてを捧げて、あがめられるにふさわしいお方だから。

力において、知恵において、義において、きよさにおいて、私たちの理解をはるかに超えた偉大なお方です。

神様は、この全世界を、全宇宙をお造りになった方。天と言われる、私たちにはわからない領域も、目に見えるものも、目に見えないものも、存在する一切合切、時間も空間をさえもお造りになった方です。それだけでそのご威光の前にひれ伏さざるえ得ないでしょう。
そしてまた、神様は、恵み深さにおいても、ご真実においても、愛においても、私たちの想像をはるかに超えた素晴らしいお方です。
地球から、1秒で地球を7周半回る光の速さをもって、何年、何十年どころか、何万年、何億年、何十億年先にもまだ天体があるという。その気の遠くなるような広大な宇宙をお造りになったお方が、なんと、私たち人間のために、私たちに滅びをもたらす罪を取り除いてくださるために、わざわざ人となって降りてきてくださり、大地に事実、二本の足で立たれて、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかってくださった。
私たちを滅びから救い出して永遠のいのちを与えるために、永遠の御国でいっしょに生きるために、その御苦しみを受けてくださった。
その真実なご愛。世の中には、神様のご真実を疑わせるような出来事があります。

なぜ、どうして、というのは、その一つ一つについてはわからないこと、まだ隠されていることがたくさんあるでしょう。しかしあの十字架において、はっきりと明確にあらわされた事は、神様は真実な方だという事です。人が完全でいる間は、優等生でいる間は愛する、けれども罪を犯したらすぐにポイっと捨てるというのと、人が罪を犯してしまって、神様に背いてしまってもなお、お見捨てにならず、ご自分が犠牲になってでも、そこから救い出す、というのと、どちらがより真実でしょう。
どちらがより深い愛でしょう。神様のご真実、ご愛は、確かにすべてにまさって心からあがめられるにふさわしいでしょう。
(U.この願いが第一であることの理由A万物はその目的に向けて造られ、配剤されているから。)
Aそれから、神様の御名があがめられるべき2つめの理由は、神様は万物をその目的に向けてお造りになり、配剤して(導いて)おられる事です。

この世界は偶然の産物ではありません。神様がお造りになりました。お造りになるからには、目的をもってお造りになったわけです。目的もなく、ただ暇だから何となく、、、ということはない。それどころか、熟慮されて、よーく考え抜かれて、計画をあらかじめ立てられて、この世界を造られました。そしてその目的は、ご自身の栄光があらわされるため、一切の事が、神様の栄光に至るべく配剤されているのです。
出エジプトの時、神様に逆らうパロでさえ、神様の栄光がいや増すために造られたと聖書にあります。

 こんなたとえ話があります。昔、ある男が、日本からどこか南の島を目指して、小さな船に乗って、海に漕ぎ出しました。
とにかく南の方に向かって、来る日も来る日も漕ぎ続けました。ところが、不思議なことに、自分ではひたすらまっすぐに進んでいるつもりだったのに、気がつくと、またもとの日本に戻っていた、というのです。南に直進していくと、黒潮、日本海流というのが流れていて、それが南のほうから日本へと北上して流れているのですが、いつのまにか、その小さな船は、その黒潮の流れに乗っかってしまって、日本に流されてきた、という話です。
自分では、南の島へ行くぞ、とひたすら真っ直ぐ漕いでいるつもりだった。しかし、気がつくと、大きな流れに逆らうことができず、
いつのまにか、また日本に流され、戻されていたという。

 神様はすべての人の造り主でいらっしゃいますから、「おれは、神様なんか信じない」といっている人も、実は、神様の御栄光のために造られ、何らかのかたちで、神様の御栄光をあらわすことのために用いられることになります。

板切れにつかまって、必死で南の島を目指した男が、どんなにがんばっても大きな流れに逆らうことができなかったように、神様に逆らい、反抗している人も、結局は、造り主なる神様の目的に逆らうことはできません。
神様の御栄光を妨げようとやっきになっている悪魔でさえ、さばきの日のために、造られた、と聖書にあります。
最後のさばきの日に神の義、正義を輝かせるために、悪魔自身の意に反して、用いられます。
悪を必ず罰せずには置かない、どれほど隠して置こうと思っても、必ずこれを明らかにして、白日のもとにさらして、厳正なる正義を行わずには置かない。そのようにして、神御自身が義であられることを示すことにおいて、悪魔も、また神に逆らい続ける者も、彼ら自身の意志に反して、神御自身の栄光をあらわすために用いられます。

 他方、私たちクリスチャンは、憐れみの器と呼ばれます。自分が正しいとか、立派だとかではなくて、憐れみの器。神様が憐れみ深い方でいらっしゃることを示す器です。
私たちは自分が罪ある者であることがわかって、それゆえ、神様が、私たちの罪を赦すためにお遣わしくださった救い主イエス・キリストを信じさせていただいた者です。

神様の憐れみにおすがりしたものです。あがめられるべきは、憐れみを受けた者ではなくて、憐れんでくださった方。それも、高いところから下界を見下ろして、憐れんでやろう、というのではなくて、私たちを救うために、ご自身が人となって、あらゆる苦しみを雄々しく受けてくださった、その犠牲を伴った憐れみです。自分が痛くもかゆくもない限りにおいての憐れみではなくて、ご自分が突き刺され、肉を裂かれ、血を流してまで示された憐れみです。その憐れみを受けることにおいて、神様の栄光を表す器なのです、

私たちは。今日の招詞の御言葉にありました「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
(エペソ1:5-6)

キリストを信じる私たちは、恵みの栄光がほめたたえられるための器なんですね。ウエストミンスター小教理問答の第一問の答えも、「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである。」と有名な言葉です。
ただ神の栄光を表すというのでなく、神様を喜ぶという事といっしょになっています。これは別々の事というよりも、一つの事の両面ではないかと思います。たとえば、どこかのレストランで、おいしい料理を食べて、おいしい、おいしい、と言って喜んで食べることが、その料理を作ったコックさんの栄光をあらわすことになるわけでしょう。
こっちはただおいしいおいしいと言って食べて、喜んでいるだけですが、それがそのまま料理を作った人の栄光になっているという。そのように、私たちが神様の恵みを味わい、知れば知るほど、それは私たちの魂に喜びをもたらし、そうやって私たちが神様の恵み深さを喜んでいることが、そのまま神様の栄光を表すことになる、ということと思います。

 こうして、神様を信じるにしても、信じないにしても、すべての人が、また人だけでなく、存在するすべての物事が、この世界の造り主なる神様の御目的に流れ込んでいくのです。それは造り主が始めっから、そう定めて、この世界をお造りになったからです。
(U.この願いが第一であることの理由B私たち自身の益となるから。)

Bそれから最後に、私たちが神様の御名をあがめるべき三つ目の理由は、そうすることが私たちにとって益となるからです。先ほども言いましたが、羊飼いなるイエス様は、私たちの益になることだから、こう祈りなさい、と仰っておられると思います。たとえば、御名があがめられますように、という願いを持つことは、私たちを悪から離れさせ、悪から守ってくれます。
神様の御名を汚すことになるような事はできないと、ブレーキになるでしょう。それからまたさらに進んで、善を行わせる原動力にもなるでしょう。神様の御名があがめられるために、進んで善を行うよう励むという事です。
イエス様は、人々があなた方の良い行いを見て、天の父をほめたたえるようにしなさい、と他の所でも仰っておられます。
パウロも、当時の奴隷たちに対して、神様の御名と教えを飾るために、主人たちによく仕えるようにと勧めていました。もちろん当時の社会と今とでは違いますから、奴隷制度がいいと言っているわけではなくて、大切なのはその動機、神様の御名がそしられないように、むしろ良い行いで飾るということです。
 それからまた、18世紀のバロック音楽の大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、自分の描いた作品の最後にSDGと書いたというのも、有名なエピソードです。AKBとかNMBとかではなくて、SDG.Soli Deo Gloria ただ神のみに栄光を、という意味です。
彼の偉大な作曲の数々の源泉は、神に栄光を帰したいという、彼の願いにあったのかもしれない、と思います。
変に自分に囚われないと言いますか、、、
 それからまた、先ほど、一切の事が神様の栄光に向けて定められていると言いましたが、だとすると、私たちの願いが、心が、神様の御名があがめられるようにという事と一致していれば、すべての事が私たちの願いのために益となるということではないでしょうか。
ある人は「もし、ある人の一番大切な仕事が、主に仕え、主をお喜ばせするということであるならば、それを取り巻くすべての環境は、その人のしもべとなってしまう。」と言っています。全ての環境、ー逆境、試練、困難も、すべて。

 19世紀のイギリスにウィリアム・ムーン(William Moon)という人がいました。彼は大人になってから、視力を失うという試練に見舞われました。しばらくは絶望の内に日々を過ごしましたが、やがて信仰をもって立ち上がると、次のように祈ったそうです。
「主よ私は、中途失明という苦しみを、あなたからの賜物として受け入れます。ですから、この失明をあなたの栄光のためにお用いください。」 
神様は、祈りにこたえて、後にムーン式(Moon Type)と呼ばれる点字の体系が彼によって、発明されたのだそうです。
そしてこれはすぐさま聖書に用いられました。これによって多くの方々の心に、以前にも増して、神の救いの光がさしこむことになりました。もし彼が、神の栄光のために、という正しい目的に向かって生きることをしていなかったら、絶望と闇の中に留まりつづけたかもしれません。
すべてのことが、神の御栄光という大目的に流れ込むように、定められ、作られている。
このことを確信することは、困難や試練の時に、また自分自身の弱さや欠けたところを痛感させられる時にも、支えとなります。
たとえ、もし仮に、地上にいる間は、私たちにはわからないことがあったとしても、最終的には、神の国の完成の時、復活の栄光にあずかり、神様が私たちの目の涙をぬぐい去ってくださる時、その時には心の底から神様をあがめることになるのでしょう。
神様が目の涙をぬぐい去ってくださるという時、物理的にハンカチか何かでぬぐうというより、涙の原因となっているものを完全に取り除いてくださるという意味でしょう。やせ我慢や強がりで泣くのを我慢するというのでなく、心の底から納得して、そして慰めを得るということでしょう。

私たちは、恵みの栄光をほめたたえるように定められているのですから、その時には神様の恵みを心の底から喜ぶのでしょう。
今、深い悲しみにあって、二度と笑える日は来ないように思っている人も、いつか、心の底から笑える日が来る。
その時にこそ、心の底から、神様を力の限り、たましいの限り、ほめたたえることになるのだろうと思います。
そういう結末を、神様はご用意くださっている。だから、その結末を受けそこなう事がないように、いつも「御名があがめられますように」と、祈りながら、その祈りが答えられる日から目を離さず、そこに向かって歩むようにと勧めておられるのでしょう。
(結び;この第一の願いにおいて、みなが一致できますように。)

 「御名があがめられますように。」この願いが私たち皆の第一の願いでありますように。
この願いにおいて、教会が一致していたいと心から願います。教会として、みながこの願いにおいて一致できたら、その願いに神様は喜んで応えてくださり、そこは神様が栄光をあらわす教会としてさらに豊かに用いられるのだと思います。
時々、柳先生が「この町には、私の民がたくさんいるから」という使徒の働き18:10の御言葉を口にされると思いますが、私はその御言葉を耳にするたびに、何かこう、心に留まる気がしています。ほかにもそう感じられる方がおられると、心強いんですが。
そして先生は、この新しくできたばかりの会堂が、今は広々として快適なんですが、それが狭く感じられるようになることをも、受け入れる心の用意を促すようなことも、仰いました。私もぜひ、そうなってほしいと思っています。
そのためにも、まず私たちがこの、「神様、あなたの御名があがめられますように」という願いにおいて一致すること、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ、帰してください。」という祈りにおいて一致することを求めていきたいと思います。