礼拝説教要旨(2018.01.07)=ハイデルベルク信仰問答= 問答:24〜25
三位一体の神を信ず
(ヨハネ 14:16〜17、26)

『第二部 人間の救いについて:まことの信仰・使徒信条  第八主日 
問24 これらの箇条はどのように分けられますか。
答  三つに分けられます。
   第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、
   第二に、子なる神と、わたしたちの贖いについて、
   第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。
問25 ただ一人の神がおられるだけなのに、
  なぜあなたは父、子、聖霊と三通りに呼ぶのですか。
答  それは、神が御自身についてそのように、すなわち、
     これら三つの位格が唯一まことの永遠の神であると、
     その御言葉において啓示なさったからです。

 私たちクリスチャンは、一体何を、どのように信じているのか、信じるべき肝心な事柄は、「使徒信条」において明らかにされている、というのが「ハイデルベルク信仰問答」の問答20〜23の内容であった。「あなたはキリスト者として、何を信じているのですか」と問われたなら、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。・・・」と答えることのできる内容である。そこには、「私たちは神を信じています。その神は三位一体の神です。父なる神が御子イエス・キリストを救い主として遣わして下さり、その救い主を聖霊なる神に導かれて信じました。そして今、聖霊に導かれ、天の御国を目指して歩んでいます・・・」という意味が込められている。私たちが信じる神は三位一体の神であることが、この問答の意味する肝心なことである。問答24、25はそのことを教えてくれる。

1、「使徒信条」の箇条は、三つに分けられていて、「第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの贖いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです」と、単純明快である。父なる神が天と地を造られた時、そこに私たち人間の創造が含まれていたことを忘れてはならない。また、子なる神、イエス・キリストが世に遣わされたのは、私たち人間の罪を贖うためであって、そのために処女マリヤより生まれ、十字架で身代わりの死を遂げられたのであった。そして、聖霊なる神が働くことによって、私たちは信仰に導かれ、教会の交わりの中で教えられ、聖なる者とされる歩みを導かれるのである。キリストが十字架で死なれたこと、三日目によみがえらたこと、天に昇り、やがて再び来られるまで、父なる神の右に坐しておられることなどをしっかり心に留めるなら、今この地上にあって生かされていることが、救いの全き完成に向かわされていることと、大いに励まされる。ここに私たちの拠り所がある。慰めや力の源がある。三位一体の神を信じるのは、全知全能の神、完全無欠の神を信じることに他ならない。

2、ところが、この「三位一体の神を信じる」のは、私たち人間にとって、難問中の難問である。問25「ただ一人の神がおられるだけなのに、なぜあなたは父、子、聖霊と三通りに呼ぶのですか。」神はただ一人、唯一と言いながら、父、子、聖霊と三通りに呼ぶのは、私たちの理性や知性の及ばない事柄である。人間の理解力を超えていると、正直に言うべきことである。ではなぜ、そのように信ずべきなのか。答「それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一まことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。」三位一体の神を理解し、この神を信じる根拠は、聖書が神について、そのように啓示しているからと言う。「聖書が、信仰と生活の唯一の基準である」と言うのは、その聖書が神について啓示することを、私たちは信ずべきと言うことを意味している。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は、真理の御霊です。・・・」主イエスがこのように約束された。そして「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」と言われた。主イエスは、父なる神のこと、そして聖霊なる神のことを理解して話しておられたのである。(16〜17、26節)

3、またイエスが公の生涯を歩み始める前、バプテスマのヨハネより洗礼を受けられた時のことが、次のように記されている。「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」。父、子、聖霊がその場に望んでおられることが分かる。(マタイ3:16-17)そしてイエスは弟子たちに、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」るよう命じられた。(マタイ28:19)聖書は、「神は三位一体である」とわざわざ言うことはない。けれども、神はそのような方であると疑うことなく、神について啓示している。そのことを私たち人間が信じることを、神が望んでおられる。従って、私たちが神を信じることにおいて、「三位一体の神を信じる」ことは、神への全面的な服従を意味し、あれこれ理屈は言いません、私はあなたを信じてお従いしますとの告白となるのである。この信仰に生きることは、私たち人間にとっての最高の幸せである。三位一体の神は、全知全能にして愛に富むお方、私たちの傍にいて、いつも見守り支えて下さるお方だからである。

<結び> 三つにして、一人なる神と理解するのは、今後も、私たちにとっては混乱させられることかもしれない。「分りましたか?」と問われて、「分りました」と答えるなら、その答は「間違いです」と言われるのが、「三位一体の神」の教えと言われる。「分りました」ではなく、「信じます」と言うべきことだからである。けれども、無理やり「信じます」と言うことではない。私は、この三位一体の神が、この世界をお造りになったので、この世界の秩序が保たれていると、心から信じることができた。この世界のあらゆる事柄に、多様性と統一性のあること、それは三位一体の神の御業に他ならないと教えられた。唯一の神が、この世界を豊かなものとして造られたのである。神ご自身において、愛の交わりの完全な実現があって、この世界が造られている。そして私たちの救いのご計画も実行されている。この神を信じることが、この世で生きる力となり、本当の慰めとなり、確かな指針となるのである。