私たちが主の日に礼拝をささげるのは、復活の主キリストを仰いで、聖霊の導きに従い、天地の造り主をほめたたえるためである。その私たちが元旦にも礼拝をささげるのは、この新しい年も、神を第一とするからであり、新しいいのちに、日々生かされていることを喜ぶからである。何はさて置いても、礼拝を大切にしたいと集うのであって、「みことば」によって、心を整えられたいと願うからである。(※私たちが元旦に礼拝をささげるのと、世の多くの人が初詣をするのとは、全く意味が違うことを先ず覚えておきたい。)
1、今朝、導かれた詩篇の冒頭は、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」との祈りである。神が私たちの目には見えないからであろうか、私たち人間は、ついつい自分を誇り、自分が成し遂げたことに、自分の拠り所を求めてしまうものである。知らない間に、自分が栄誉を受けることになっていても、それさえも良しとしてしまうことがある。そんな私たちは、この詩篇の作者とともに、栄光をお受けになるに相応しいのは、ただ生ける真の神さまだけですと、心からの祈りをささげることを導かれたいと思う。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく」と繰り返すのは、私たち人間が、やはり自分が大事で、自分中心に物事が進むのを願うからである。しかし、私たちが信じる真の神は、全知にして全能なるお方である。その神は、「天におられ、その望むところをことごとく行われる。」(1〜3節)
2、私たちが信じる神が、どれだけ偉大で、どれだけ優れているのか、それが明らかになるのは何によるのか。聖書は、次の一言を告げる。「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである」と。世の人々が、この神こそと慕ったとしても、人の手のわざによる神々に、どれほどの力があるのか。「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。」(4〜7節)日本中、いや世界中に、ありとあらゆる神々があり、偶像の神々が満ち溢れている。その神々が人々に益をもたらしていると信じて、多くの人が自分にとっての益を求め、神々のもとへと集まっている。けれども、この世の神々は、全くの無力である。「これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」(8節)天と地を造られた神、この天地を治めておられる方こそを信ずべき神である。
3、天と地を造られた神が、私たち人間をお造りになり、その神に背いて罪を犯してしまった私たちに、罪からの救いを備えて下さっていること、この救いに与って生きることの幸いは、何ものにも勝る幸いである。以下、この詩篇は、「主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である」と繰り返す。祝福は、天と地を造られた神、主から来ると。(9〜15節)そして、神によって生かされる限り、「主をほめたたえよう。ハレルヤ」と歌う。(16〜18節)造り主なる神がおられ、私たち人間がいると、心から信じて生きる時、神は私たちの歩みを固くして下さる。この世で恐ろしいこと、悩ましいことが押し寄せる時、神が盾となって下さる。神は必ず、私たちに目を留め、助けて下さる。私たちは、決して自分の知恵や力に頼ることなく、「あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」と祈ること、その祈りをささげて歩むことが力となるのである。
<結び> 今朝の元旦礼拝の他に、今年は52回、「主の日」の公の礼拝が巡って来る。私たちは、礼拝において「みことば」に触れることを大切にしたい。また自分で聖書を開き、「みことば」を心に蓄え、「みことば」によって養われることを願って歩みたい。「ただ神にのみ栄光を」との祈りをもって、神に信頼して歩めるように。また神の御手の中で安らぐ日々を歩めるよう祈りたい。一人一人の歩み、そして、教会全体の歩みが一層祝されるよう祈りつつ。今年は、特にこの会堂に多くの人が導かれることを祈りつつ。
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