先週、この新会堂でクリスマス礼拝をささげてから一週間、喜びをもって過ごせたことを感謝したい。けれども、それぞれの現実の生活には課題があり、果たすべき務めがあり、負わねばならない重荷もあったに違いない。クリスマスを祝い、その喜びの季節を過ごす時、いつも私たちの地上の日々には、実に多くの課題があり、その一つ一つに、しっかり向き合いながら生きることの大事さをつくづく思わされる。その現実は、幼子の主イエスご自身の課題でもあったことが、今朝の聖書個所によく表れている。幼子のイエスを拝した博士たちが帰った後、マリヤとヨセフは、たちまち慌ただしくエジプトへの逃避行を強いられることになった。ヘロデ王が、とんでもないことを考え、それを実行しようとていたからである。
1、けれども、いつでも、どんなことでも、生ける真の神は全てのことを支配し、ご自身のご計画を、時にかなった実現へと向かせておられる。救い主の誕生においても、そのご計画を万全に進めておられた。博士たちをヘロデのところに帰らせることなく、次には主の使いをヨセフに遣わし、エジプトに逃げるよう命じられた。なぜそうする必要があるのか、その理由も告げておられる。ヨセフはその命令をしっかりと聞き取り、「夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(13〜15節)その一連のことは、預言されていたことと明言される。ヨセフの信仰による、的確な理解と行動によって、ヘロデが残忍な殺戮を実行に移した時、幼子のイエスは、既に安全な場所にいた。二歳以下の男の子をひとり残らず殺せとの命令は、博士たちの話から割り出したもので、そこまでしておけば失敗はないと、ヘロデなりの策であった。しかし、神の守りは揺るがなかった。人がどれだけ考え、また、これで良しとしても、全知にして全能の神の守りと助けは、その上を行くものである。私たちはこの事実を見落とすことのないように。
2、権勢を誇り、残忍さをむき出しにしたヘロデであったが、彼はそれから間もない頃に、この世を去った。紀元前の4年である。そのことから、イエス・キリストの誕生は、紀元前6〜4年であったと考えられている。西暦の年号は、6世紀の神学者ディオニシウス・エクシグウスによって525年に算出されたものによる。その時点でキリストの誕生を起点としたが、後の研究によってほぼ4のずれが明らかになった。それは、ヘロデの死の前にイエスが生まれていることによる。歴史を支配しておられる神は、ヘロデの死をヨセフに知らせ、安心して「イスラエルの地に行きなさい」と言われた。彼は命令に従って、イスラエルの地に入ったが、ヘロデの子のアケラオがユダヤを治めていることに不安を抱いた。恐れたヨセフに、神は答えておられる。恐れを抱いて、不安のままユダヤに留まる必要はなく、「ガリラヤ地方に立ちのいた。」マリヤもヨセフも、ガリラヤのナザレが自分たちの住まいのあった町で、何年かぶりで、勝手知った町に住むことになった。こうした一連のことも旧約聖書に予め告げられていて、イエス・キリストの誕生とその生涯は、神の約束に基づくこと、神の万全な守りと助けのもとにあったのである。(16〜23節)
3、神に守られ助けられていると確信する信仰は、常にマリヤとヨセフを支えるもの、二人の人生において、一番大事なものであったに違いない。神は、いつもいつも彼らの目の前に現れて下さるわけでなく、折に触れてということでもなく、極めてまれに、肝心な導きを与えておられた。けれども二人は、霊の目と耳をもって、主なる神の導きをしっかり見分け、また聞き分けていた。マリヤは受胎告知を受けた時、「神にとって不可能なことはありません」と言われて、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えた。(ルカ1:37-38) 自分を神に明け渡し、神にお任せします、と言い切ったのである。ヨセフは、マリヤのことで悶々とした日々を過ごした後、マリヤが身重になったのは聖霊によると知らされた時、心から神を信じて、マリヤを妻として迎えたのであった。(マタイ1:18-25)神ご自身が、幼子の誕生を万全の御手で守り、マリヤとヨセフを支えておられたことが分る。生まれた幼子をヘロデから守ることにおいても、その守りは万全であった。現実的には大慌てや、綱渡りのような緊迫感の中にあったとしても、神はヨセフを励まし、母マリヤと幼子を守っておられた。私たちも同じく、万全の守りと助けの中にあることを覚えたい。決して忘れないように。
<結び> 一年を振り返って、私たちも、生ける神、私たちに救い主をお遣わし下さった神の、万全なの守りと助けによって支えられたことを感謝できるなら、何と幸いなことであろうか。私たち自身の物の見方や感じ方において、必ずしも喜びべないことがあり、未だに心が痛むこと、納得できないでいることもあろう。今まだ解決していない難題もあるに違いない。けれども、神がヨセフに行く道を示されたように、必ず、私たちにも行くべき道を示して下さる筈である。示されたその道を行こうとして、なお不安があるなら、その時は、「なお不安です」と祈り、確かな導きを待つなら、必ず次の道を示して下さる。実際のところ、神に信頼して地上の日々を生きることには、私たち自身が物事を見極め、考え、決断して実行することが、何よりも尊いこと、肝心なことである。ヨセフが夢で知らされたことを、眠りから覚めて、その通りにしたことに、大事な教訓がある。神が教えて下さったからと、その通りにするには、神に導かれ、ヨセフ自身が決断して、実行している部分がある。彼自身が一歩、確かに踏み出している。信じて踏み出すのを、神ご自身が聖霊を遣わして導いておられたのである。私たちの信仰においても、神の万全な守りと助けのあることを知ってこそ、地上の日々が確かな歩みとなることを忘れないように。私たちの信仰が堅くされるカギがここにある。(ローマ8:31-34)
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