序)先週は献堂感謝礼拝、来週はクリスマス礼拝、ということで、今日はその間に挟まれた礼拝となるわけですが、せっかくですから何か、会堂のこととクリスマスと両者をつなぐようなと言いますか、両方にかかわるようなメッセージはできないかな、と思って考えまして、今日のこの個所に導かれました。会堂と言いますのは、キリストに礼拝をお捧げする場なわけですが、イエス様がご降誕されたときに、最初にイエス様に礼拝が捧げられた場所が、ここに記されています。飼葉おけ、また飼葉おけが置かれている家畜小屋。どうしてまたよりによって、そんな所に神の御子がお生まれになったのか、そこに込められている神様の御心に思い巡らしてみたいと思います。
本文解説)さて、先ほど司会者の方に読んで頂いたところに、イエス様ご降誕のいきさつが記されていましたが、もう一度簡単に説明しますと、ちょうど母マリヤが身重で、じきに生まれるという時に、皇帝アウグストから住民登録をせよ、と勅令が下ってしまった。考古学の研究によりますと、当時の住民登録は、徴税、徴兵のために、14年ごとに、先祖の町ですることになっていたと言います。で、マリヤの夫ヨセフはダビデの家系だったため、ダビデの町と呼ばれるユダヤ地方のベツレヘムという所まで、わざわざ行かなければならなくなった。彼らが住んでいたナザレからベツレヘムまで、直線距離でおよそ100キロ。100キロってどれくらいかと、地図でちょっと調べてみましたら、この所沢のあたりからですと、西に向かうと甲府を過ぎて北杜市あたり、北に行くと日光、東に行くと成田と銚子の中間、読みづらい地名で匝瑳(そうさ)市というところがありますが、そこがほぼちょうど100キロになります。南だと伊東のあたり、ということになるでしょうか。いづれにしても、当時のことですから、結構大変なことです。ロバがあればまだよかったでしょうが、彼らは貧しかったですから、どうだったか。ま、ロバくらいはあったのかもしれませんが、ともかく、大きなおなかを抱えたマリヤとヨセフは、カポカポか、テクテク、トボトボか、ベツレヘムに行った。 ところが、ようやく着いたと思ったら、何しろ全国津々浦々から、ダビデの家系に属する人々が集まるわけですから、宿屋はどこも満杯。かろうじて、家畜小屋を貸してもらって、夜を明かすことにしたのですが、、、。なんとよりによって、そこで、月が満ちて、イエス様がお生まれになった。なんて間の悪い子、、、とマリヤが思ったかどうか、わかりませんが、人間にとって「なんでこんな最悪なタイミングで、、、」というのが、実は神様が意図しておられたピンポイントの時だった、ということは、あるのだろうと思います。人間の力でどうにもならないことまで、自分中心に物事が動かないと言って恨みがましさを募らせるよりも、自分の力を超えたことは、神様のご支配のもとに身を低くして、御心に従うべきということは、あるのかもしれません。ともかく、そんなわけで、イエス様は、清潔なベッドの上でなく、なんと、飼葉おけに寝かされることになった。横では、牛だか羊だか馬だか、家畜がモッサモッサとエサをはんでいるような所で、エサの干し草かなにかを入れておく桶、むこうでは石でできた桶だそうですが、そこにですね、布に包まれて、置かれた。これが、今日まで時代と国境を越えて世界中で救い主と仰がれ、お祝いされているイエス・キリストのご降誕の次第だったというのです。自分のような者が、畳の上で寝起きできているだけでも、感謝しないといけないなあ、と思わされます。
以上が、御子キリストのご降誕の次第です。
1. 汚れた心にも来てくださる。
言うまでもなく、飼葉おけの置いてある家畜小屋は、きれいなところではありません。動物の汚物やエサでムンと鼻を衝く臭気のたちこめるところ。そんなところでイエス様がお生まれになったとは、おいたわしや、、、と思わずにはいられないわけですが、、、でも考えてみますと、キンキラキンの宮殿や、きよらかな聖なる神殿にではなくて、家畜小屋に来てくださったというのは、実は私たちにはありがたいことでした。イエス様は、私たちの心に、―それがどれほど罪や汚れでいっぱいであろうとも、それを厭わずー来てくださる、ということだからです。イエス様は、心のきれいな、きよらかな人のところでないと、来てくれない、というのではない。聖人君子でなければ、良妻賢母でなければ、出木杉君みたいな優等生でなければ、来てくれないというのではない。立派な人、立派な家庭、立派な家、でないと、イエス様を迎えることは出来ない、というのではない。家畜小屋にでも、来てくださる。自分でもたまらない臭気を発する、醜い心であっても、イエス様は厭わずに来てくださる。これは、私のような者には、とても励ましになり、慰められることです。時に、こんな醜い自分の心になど、とてもイエス様に来てくださいなどと言えない、顔を向けることもできない、と思ってしまうことがありますが、そんな時、「でも、イエス様は家畜小屋にでも来てくださった。家畜小屋みたいな自分の心にでも、厭わずに来てくださるんだ」と思い直して、イエス様、こんな私の心にも来て、きよめてください、癒してください、と祈ることができるのです。
アメリカの方でのお話ですが、NYにアル中のホームレスの男性がいました。彼は、ごみ集積場のようなところに寝泊まりして、落ちている瓶を拾って集めてはお金に変えて、お酒を飲んでいたそうです。そんな彼がある年のクリスマスに、たまたま教会の外にいたら、聖歌隊の賛美が聞こえてきたそうです。そしてその歌声を聴いているうちに、神様が自分を教会に招いているように感じたそうです。でも、ふと、自分の姿を見ると、ホームレスですから何日もシャワーも浴びていなくて、汚らしい恰好で臭いもきつくて、こんなありさまで教会に入っていいんだろうか、行っても追い出されるだけじゃないか、と思ったそうです。ところが、彼は、いや待てよ、ここは神様の家だ、人がどう思おうと、神様が招いてくださっているんだから、入っていいんだ、と思い直して礼拝に入っていきました。そして礼拝の後、牧師の所に行くと、牧師はポケットに手を入れて1ドル札を取り出そうとしました。下町にあるその教会では、そういうことはよくあるそうです。ところが、彼はその牧師に言いました。「私はお金が欲しいんじゃない。あなたが語っていたキリストが欲しいんだ。」その後、彼は教会に通うようになり、教会の助けもあって、それまでの生活がガラリと変えられて、数年後の礼拝では、きれいな身なりをして、大勢の聴衆の前で、いかにキリストが自分を変えてくださったかを証していました。キリストは文字通り臭気漂う人の所にも来てくださって、そこを神の国に、キリストの香りの漂う器へと変えられるという事なのでしょう。
こういう例はわかりやすいわけですが、何もこういう劇的に人生を変えられたという事に限らず、実は毎週毎週、キリストに出会って、変えられていく、導かれていく、守られていく、ということは、全てのクリスチャンに必要なことなのだと思います。
2. 罪で汚れた世に来てくださったのは、愛のあかし
それから、神の御子が、飼葉桶に寝かされたと思うと、いかにもおいたわしやと、感じるわけですが、でも実は、何も飼葉桶でなくても、もし仮に最上のフンワカベッドの上だったとしても、一泊何十万とするような超最高級ホテルだったとしても、聖なる神の御子にとっては、この世に来られたと言うこと自体が、実は飼葉桶の中に来られたのと同じようなものだったのかもしれません。この世自体が、巨大な飼葉桶といいますか。罪と汚れでいっぱいで。聖なる神の御子には、たまらない悪臭を放つところだったのではないか。人間の罪というもの、そこから発生する数え切れない悲惨。特に最近は、私たちでさえ、心を痛めずにはいられない事件が数え切れないほどありますから、ましてや愛なる聖なる義なる神様は、そこにあふれる罪や汚れをどれほど嫌悪しておられるか・・。
汚らわしいものからは、顔を背けたい。遠ざかっていたい、と思うのは自然なことです。 もし仮に、どうでしょう。汚らわしい家畜小屋で、ハエがぶんぶん飛び回って、鼻が曲がりそうなくらい強烈な汚物の臭いで、そこに入るだけで病気になりそうな所があったとしたら、そんなところに入りたいという人は、いないでしょう。むしろ、顔を背けながら、足早にそういう所から遠ざかろうとします。 ただし、それは、そこに誰もいなければの話です。これがもし、そんな所に、赤ちゃんでまだ自分で動けない、愛する我が子がいたとしたら、どうでしょう。背けたいと思っていた顔は、強烈な臭気にもかかわらず、そちらのほうに向かいます。遠ざかろうとしていた足は、身震いするような所であるにもかかわらず、そちらに向かいます。愛する者をそこから助け出すために。 本当は厭で厭で仕方がないところであっても、愛する相手がそこにいるなら、そこに入っていくのです。 決め手は愛です。
神の御子がこの世に来られたのも、同じです。聖なる神の御子のご性質からすれば、世は、顔を背け、遠ざかっていたいほどの、たまらないものでしょう。けれども、そこに愛する人々がいる。罪に虐げられ、苦しむ人がいる。滅びに向かっている人がいる。だからこそ、イエス様は天の栄光を蹴って、この世に降りてきて下さり、私たちをそこから救い出そうとして下さった。御子が、罪にあふれる世に来てくださったことは、私たちに対する、愛の証なのです。
3.キリストは神の国を与える
イエス様は、十字架にかかられて、死なれました。それは意に反して、十字架にかけられてしまったとか、不覚にも弟子の一人に裏切られて、そんなことになってしまった、というのでなく、むしろ、イエス様はそのためにこそ、世に来られた、と、あらかじめご自分でおっしゃっておられました。すなわち、世の罪を取り除くために、信じるすべての人の罪をご自分が背負って、私たちの身代わりに、あの十字架の上で死んでくださるために、世に来られた。私や皆さんの罪、私たちがもう忘れてしまっている罪も、気づかない罪も、あるいはまた過去に犯してしまって今もなお、責め続けている罪も、あるいはなかったことにしようと蓋をして押さえ込んでいる罪も、すべての罪を取って、それらの罪とともに十字架に刺し通されてくださった。そして、誰でもこのキリストを信じるものは、まったき完全な罪の赦しを与えられ、神様の子どもとされる。永遠のいのちを与えられ、永遠に祝福に満ちた神の国を相続させて頂ける。神の国とは、復活の体をもって、自分の二本の足でしっかりと大地を踏みしめて、神様とともに永遠に喜びの内に生きる場所です。そこは、義と平和が支配する、従って喜びと賛美が永遠に絶えることのない、死のない、永遠に祝福された御国です。神様は世のはじめから、愛する私たちに、最終的にこの神の国にあずからせるご計画を持っておられるんですね。そしてイエス・キリストは、その神様のご計画に従って、私たちにそのような神の国の祝福を与えるために、この世に来てくださいました。
そしてまた、その将来の神の国の前味は、私たちがキリストと出会い、キリストとともに歩むときに、いくらかでも味わうことが恵まれるものでもあります。キリストがおられるところ、そこが神の国という言い方もできます。
結び)キリストを求めて礼拝に来る!
礼拝は、生きておられるイエス様に出会う場です。礼拝に来る時に、ここでイエス様に賛美を捧げよう!と思って集う。イエス様に感謝を捧げ、祈りを捧げよう!と思って集う。そういう思いをもって礼拝に集い、イエス様にそれらの霊の捧げものをお捧げする。それからまた毎週、礼拝に来る時に、何か一つでもイエス様から恵みを受けて帰ろう、という気持ちをもって来る。恵みに対する飢え渇きといいますか。必ず何か、霊の恵みをもって帰るという貪欲さといいましょうか。キリストは、礼拝を通して、語られます。招詞を通して語られることもあるでしょうし、賛美を通して語られることもあるでしょう。礼拝の中で何人かの方が捧げる祈りの言葉を通して、聖書交読、聖書朗読を通して、語り掛けられます。またメッセージを通して、昔、マリヤがイエス様の足元で教えに耳を傾けたように、私たちも礼拝の場で、イエス様から教えを受けさせていただきます。祝祷も、漫然と受けるのでなく、神様からの祝福に対する飢え渇きをもって受ける。。。そんな具合に一つ一つの式次第を通して繰り広げられる生けるキリストとの豊かな交わりを繰り返し週の初めごとに受けることによって、私たちの人生は導かれ、守られ、また私たち自身が変えられ、成長させていただけるのではないでしょうか。
キリストが、きらびやかな王宮や荘厳な神殿でなく、飼葉おけにお生まれになったというのは、キリストが礼拝に求めておられるのは、他の何物でもなくて、ただ私たちがキリストご自身を求める思い、お慕いする思いだけ、他に何もいらない、そういうことも表しているのかもしれません。
イエス様は、礼拝において私達が会いに来るのを待っておられます。私たちを愛して、巨大な飼葉おけであるこの世にまで来て下さったイエス様のご愛にこたえて、私たちもまたイエス様をお慕いし、イエス様ご自身を求めて、集いたいと思います。その時、天の軍勢が歌っていた賛美が、この場所においても成就するのでしょう。「いと高き所に、栄光が、神に。そして地の上に、平和が、御心に叶う人々に。」
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