礼拝説教要旨(2017.12.24)
王なるイエスを拝す =クリスマス礼拝=
(マタイ 2:1〜12)

 2017年のクリスマス礼拝を、この新会堂でささげられる喜びは格別である。主なる神が、この世界の始まる先より、永遠のご計画の内に私たちを救いに選び、時至って信仰に導いて下さり、このように一つ所に集めて下さっている事実は、測り知れない恵みである。教会にとって何が大きな喜びかと言うと、キリストの復活を祝うイースターと共に、キリストの誕生を祝うクリスマスの喜びはやはり大きい。幼子の誕生は、理屈抜きの喜びを与えてくれる。誰もがその喜びの場に招かれている。この時にこそ、私たちは、この幼子の前に近づき、心を低くして幼子の主イエスを拝し、この方の前にいることこそ、私の喜びです・・・との信仰を堅くされたいと願う。この礼拝を通して、一人一人の信仰が深められるように。

1、先週は、最初のクリスマスの出来事を通して、お生まれになった幼子イエスを礼拝したのが家畜小屋であったこと、イエスさまは飼葉おけに寝ておられたことを、改めて覚えさせられた。生ける真の神は、礼拝において私たちと会って下さり、私たちが神と共にいることを喜んで下さるのであるが、幼子の誕生においては、神が罪に汚れた私たち人間の所にまで、親しく降りて来て下さったのであった。私たち一人一人を愛して下さるからこそ、このクリスマスの出来事があるのであって、そこにクリスマスの喜びがあると心に刻むことができた。最初に幼子イエスを礼拝したのは羊飼いたちであった。その次は、ルカの福音書によると、シメオンとアンナの二人である。律法によるきよめの期間が満ちた後、マリヤとヨセフがエルサレムの宮に上った時、聖霊に導かれたシメオンが先ず神をほめたたえ、続いてアンナも神に感謝をささげたのであった。この幼子こそ神が約束された救い主、神の救いは万民の前に備えられていると、その誕生が喜ばれていた。その次に幼子イエスの前に現れたのが、今朝の聖書個所に登場する博士たちである。彼らははっきり、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を「拝みにまいりました」と、王なる方を礼拝するために来たことを告げたのであった。(1〜2節)

2、その当時、ユダヤの地方を治めていた王はヘロデであった。ヘロデ大王として知られる彼は、権勢を誇り、エルサレムの神殿を金で装うなど、ユダヤ人の気を引く政策を取りながら、自分の地位を脅かす者の命を絶つなど、強権を振りまいていた。その王の前で、東方の博士たちは何のためらいもなく、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と尋ねていた。その方を拝するために来ました!と。「あなたではなく、別の方です。その方こそ本物と王様です!」と言うかのように。博士たちの言葉に、王だけでなく、エルサレム中の人も恐れ惑ったのは、ヘロデの残忍さを知るからであった。「ヘロデは何をしでかすか・・・」と恐れたからである。博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と言った時、ヘロデも、その王とは「キリスト」のこと、と察したようである。すぐにユダヤ人の指導者たちを集めて、キリストはどこで生まれるのかを問いただした。「ユダヤのベツレヘム」との答を得たヘロデは、そのことを博士たちに知らせ、彼は彼で次の手立てを考えていた。用意周到のようでいて、しかし、本気ではない関わり方をしている。(3〜8)聖書の言葉を、余り真剣には受け止めない・・・、そんな態度である。本当かもしれない・・・でもそんなことはないだろう・・・。私たちも、同じような態度を取っていることはないだろうか。

3、「ユダヤのベツレヘム」と聞いて出かけた博士たちを、神は星によって先導された。彼らはその導きを信じ、幼子のいる所で星が止まった時、まだ幼子に会う前にも拘らず、「この上もなく喜んだ。」(9〜10節)「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)彼らは、信仰を持って礼拝の旅に出た。そのために多くの犠牲を払い、また準備を重ね、旅を続けたのであった。今まだ、その王に会ってはいないが、喜びに溢れていた。「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(11節)幼子イエスの前に、ひれ伏して拝んだ博士たちは、幼子こそ拝すべき方、礼拝をささげるべき、生ける神、真の神と信じて、この方に最高の宝物をおささげしたのである。黄金、乳香、没薬の三つの贈り物と記されているが、宝の箱をあけて、その中から一部を取り出したというより、持って来た全てをささげたのに違いない。彼らの思いは、やはり自分をささげること、宝物をささげるのがこの方に相応しいと、心から信じていたと思われる。神はそのような彼らに、ヘロデとは縁を切るよう、確かな導きを与えておられた。神にお会いした者として、彼らには別の道のあることを示され、彼らはその導きに従い、「別の道から帰って行った。」(12節)

<結び> 今朝はクリスマス礼拝であるが、私たちは毎週、日曜日を「主の日」として覚え、公の礼拝をささげ続けている。礼拝をささげるには、先ず、心を神に向けることが求められる。東方の博士たちが、「王としてお生まれになった方」を訪ねて、「拝みにまいりました」と言ったように、私たちにとっても、王なる方を礼拝すること、この方に私たちはお仕えします、従いますとの思いを込めているかどうか、その礼拝者の心が大切となる。私たち人間は、ともすると、人間に仕えてくれる神を求めている。私たちにとって役立つ神を。世の神々のほとんどがこの類である。人間が造った神は、皆、例外なくそうである。けれども、生ける真の神は、この世界を造られ、人間を造られた方、王の王であり、主の主なる方! このクリスマスにも、私たちは、幼子イエスは、王なる方であり、王なるイエスを拝する喜びをこそ、心から経験したいと思う。賛美の歌声を上げる時、主イエスは私の王です、私はこの方に従います、お仕えしますとの決意を込めたいと思う。そのようにして、神を賛美することが導かれるように。それぞれが自らの信仰を吟味し、新しい信仰の決心が導かれるように願いつつ・・・。