5月7日に「新会堂起工感謝礼拝」をささげてから7か月、遂に今日、「新会堂献堂感謝礼拝」を迎えた。私たち一同の喜びと感謝の大きさを、どのように言い表すことができるだろうか。どのようにしたとしても、決して表現できるものでない・・・であろう。目に見える形で表わすのは難しい。けれども、私たちにとって、主が成して下さった大きな御業を、心から感謝して喜ぶには、この新会堂で礼拝をささげることを喜び、感謝に溢れて賛美をささげ、御言葉に耳を傾け、この礼拝を神が喜んで下さると確信して、この場に連なるのが一番!・・・と思う。キリスト教会にとって教会堂は、神への礼拝をささげる場所である。その礼拝は、単なる儀式としての礼拝ではない。そこで霊的な、本物の礼拝がささげられているのか、その本質が問われることになる。だからこそ、その本質は何か、それを再確認しておくことが、今こそ大事となる。
1、ローマ人への手紙は、パウロが書いた手紙の中で、イエス・キリストを信じる信仰の中心を、最も丁寧に、また詳しく説き明かすものである。キリストの十字架と復活の出来事が、罪人を救いに導き入れるのに肝心なことであると教え、手紙の読者たちに、キリストにある者として、地上の生涯を生き抜くようにと教え、また励ますために書かれていた。パウロはどの手紙でも、どのように信ずべきかを説くとともに、どのように生きるべきかを説いている。知識や理性をもってキリストを救い主と信じても、日々をどのように生きているかが、実際にとても大事だからである。生き方に表れることのない信仰は、全く意味のないものとなる。12章以下、キリストを信じた者がどのように生きるのか、具体的な教えが語られるが、その冒頭は、自分自身を、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と、聖徒たちがささげる「霊的な礼拝」への勧めである。(1節)当時も、聖徒たちが共に集う礼拝があり、また個々がささげる礼拝があった。そうした背景の中で、形に表れる礼拝があり、また、形には表れない礼拝があることを踏まえながら、最も大事なものは「霊的な礼拝」であると言う。それは、「聖霊」に導かれた礼拝を指すよりも、「理にかなった」礼拝のことを指している。それは、「あなたがたのからだを」ささげることと。自分自身をささげること、「生きた供え物」として、真心からの献身の思いを込め、神に仕えているかどうか・・・と。
2、パウロは、この勧めを決して押し付けはしない。むしろ、「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」と控え気味である。大事な教えであっても、聞く者が心から応えることがなければ、神に喜ばれることはない。「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心、神よ。あなたは、それをさげすまれません」と言われる通りである。(詩篇51:17) 神に受け入れられるのは、砕かれた霊、すなわち、自分の罪を悔いた、砕かれた心をもって、神の前に額づく、そのような人である。私たちが礼拝に集うなら、罪を悔いて、砕かれた心をもって、私たち自身を神の前にささげること、ひれ伏すことが肝心となる。そのようにして、何を心に刻むのか。それは、神の前に出て、自分の生き方が全く変えられることを良しとする、生き方や価値観の転換を受け入れることである。「この世と調子を合わせてはいけません。・・・心の一新によって自分を変えなさい。」(2節)※「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(新改訳2017)私たちが礼拝に連なり、自分自身を生きた供え物としてささげるなら、私たち自身が変えられる。もしそれがないないなら、私たちは礼拝をささげていることにはならない。自分のからだをささげる礼拝とは、それ程のことなのである。
3、こうして、自分自身をささげる礼拝をささげ続ける時、私たちは、キリストのからだなる教会を建て上げるために、それぞれの分に応じた役割を担い、喜んで仕える人になる。パウロは、一人一人、「慎み深い考え方をしなさい」と、それぞれに与えられた賜物を互いに尊ぶことを説く。(3~8節)更に、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(9~10節)私たちは、礼拝をささげることを繰り返しながら、主ご自身によって教えられ、聖められ、練られ、整えられ、キリストご自身に似る者として変えられる。そのことに気づいているだろうか。気づいていなくても、実際には変えられている事実を、知ることが大事である。新会堂で思い新たに礼拝をささげる今日、礼拝をささげるのは、自分自身をささげることであり、自分のからだをささげる毎に、神ご自身が私たちの心を新たにし、私たちを神に相応しい者へと変えて下さることを覚えたい。そのために、私たちは教会に集い、会堂で神を賛美し、神に祈り、自分をささげる礼拝をささげるのである。神ご自身によって変えられるための礼拝、その礼拝の場として新会堂が備えられたのである。
<結び> 今朝は、新会堂の「献堂感謝礼拝」である。「竣工」や「落成」また「完成」など、いろいろな言葉使いがあるが、主なる神が私たちに与えて下さった「新会堂」を感謝していただき、この会堂を礼拝のためにこそ「使わせていただきます」と、感謝を込めて「献堂」する「献堂感謝礼拝」である。主のご用のために使います、使わせていただきますと。けれども、会堂の一部が、何か特別に「神聖である」とか、誤った理解が入り込まないように注意したい。もし何かを特別視する必要があるとすれば、主の日の礼拝そのものが、最も大事と覚えたい。理由は、礼拝において、私たち一人一人は、主のご臨在の前に集うのであって、地上での礼拝が、「天国での礼拝の前味である」ということにある。私たちはここに集い、主イエス・キリストを通して、父なる神を仰ぐ。ここで聖霊に導かれて祈る時、キリストの御名によって、父なる神に祈りをささげている。神はその礼拝を喜んでお受け下さる。礼拝に集うためには、自分自身をこの場に向かわせる必要があり、この礼拝の場に身を置くことをもって、自分の身をささげることになる。自分自身を「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」としてささげることなしに、私たちはこの場にいることはできない。その意味で、礼拝に集っていることが「霊的な礼拝」、「理にかなった礼拝」と言える。実際に来れない時も、この場所での礼拝を覚えて、心を一つにすることができる。そのことを忘れずに、この新会堂で礼拝をささげられる幸いを、心から感謝し、主の日毎の礼拝を喜んで、天の御国を仰ぎ見ることが導かれるよう祈りたい!
※現会堂の使い始めのこと(1979年度総会資料より)
1978年 4月30日(日)第一期会堂建設献堂式(70名 説教者:宇田進師)
5月 7日(日)プレハブ会堂第1回礼拝(39名 説教題「なすべき礼拝」)
11月26日(日)新会堂第1回礼拝 国島順子姉/金森宏之兄婚約式
12月 3日(日)第二期会堂建設感謝礼拝 日曜学校:新会堂第1回礼拝
10日(日)日本基督長老教会創立記念礼拝
午後:第二期会堂建設献堂式(67名 説教者:堀越暢治師)
17日(日)クリスマス祝会(日曜学校 107名)
24日(日)クリスマス礼拝(59名) 洗礼式(高山和子姉) 転入会式(金森宏之兄) 31日(日)礼拝
1979年 1月 1日(月)元旦礼拝(40名)
|
|