『第二部 人間の救いについて:まことの信仰・使徒信条 第六主日
問20 それでは、アダムを通して、すべての人が堕落したのと同様に、
キリストを通してすべての人が救われるのですか。
答 いいえ。まことの信仰によってこの方とひとつになり、
そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。
問21 まことの信仰とは何ですか。
答 それは、神が御言葉において
わたしたちに啓示されたことすべてを
わたしが真実であると確信する、
その確かな認識のことだけでなく、
福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、
心からの信頼のことでもあります。
それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、
罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。
それは全くの恵みにより、ただキリストの功績によるものです。
問22 それでは、キリスト者が信じるべきこととは何ですか。
答 福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。
わたしたちの公同の疑いなきキリスト教信仰の箇条が、
それを要約して教えています。
問23 それはどのようなものですか。
答 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり・・・
我は聖霊を信ず、・・・』 ※「使徒信条」以下略
全く聖く、全く正しい神の裁きに、私たち人間は、誰一人、決して耐えることはできない。だからこそ、神の側で救いの道を備え、私たちを招いて下っている。正しい人間であり、同時に真の神である方、神の御子イエス・キリストを、確かな「仲保者また救い主」として世に遣わして下さったのである。この方によらないでは、罪の赦しはなく、神との親しい交わりに入られることはない。この救いへの招きは、聖書全体を貫くもので、聖書を「聖なる福音」として読むことによって、キリストを信じる信仰が堅くされる。けれども、私たちの思いが先走ることなく、福音をより正しく心に刻むことが大事となる。
1、キリストが仲保者であり救い主なら、全人類が救われのかとの問は、教会の歴史の中で繰り返されている。問20「それでは、アダムを通して、すべての人が堕落したのと同様に、キリストを通してすべての人が救われるのですか。」答「いいえ。まことの信仰によってこの方とひとつになり、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。」確かに、一人の人、アダムの背きにより、全人類に罪が及んだ。同じく、一人の人であり、神である方によって救いが人々に及ぶと言われている。けれども、「すべての人」の意味は、より注意深く読み取らねばならない。すなわち、信仰によって、キリストと結びついた人、キリストにあって注がれる全ての恵みを、感謝して受け入れる人々のことである。キリストへの信仰なしに、「すべての人」と言う訳ではない。そこで問答21となる。問21「まことの信仰とは何ですか。」答「それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてを わたしたちが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります。」聖書が啓示していることを真実として確信するに止まらず、それらを聖霊に導かれて、心から信頼することと言う。答は更に続く。
2、「それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えれるのです。それは全くの恵みにより、ただキリストの功績によるものです。」聖書を通して、キリストを信じるなら、信じる他の人々とともに、私にも罪の赦しが与えられ、神の前に義とされ、永遠の命の幸いに入れられるのである。全くの恵みによる救いとは、このことを指す。キリストが神の義を満たして下さった、その功績に私たちは与らせていただくのである。では、何を、どのように信じるのかについて、問答22が続く。問22「それでは、キリスト者が信じるべきこととは何ですか。」答「福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同の疑いなきキリスト教信仰の箇条が、それを要約して教えています。」聖書が福音として読まれるなら、必ずキリストに行き着く筈で、福音として告げられている救いの道は、神の確かな約束である。その約束は、公に信仰の箇条として知られていて、それらを通して、私たちも何を信じるのかを教えられる。その信条の一つが問答23で紹介される。それは「使徒信条」として知られるもので、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」で始まる信条である。
3、三位一体の神を信じます・・・との内容であるが、神の独り子、主イエス・キリストについて、より詳しく告白するものとなっている。キリストを仲保者、また救い主と信じるに当って、先ず「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」と、聖霊の御力による、マリヤの胎への懐妊と誕生のことを宣明する。「処女マリヤより生まれ」こそ、神が人となって世に来られる時の、どうしても必要な道筋であった。通常の出生による人は、皆罪ある者として生まれるからである。神は救い主を世に遣わすのに、神の独り子を遣わされたのである。その独り子を、罪のない人間として遣わすのに、処女マリヤの胎に宿らせ、通常の人間と同じように生れ出るようにされた。そこには、罪と悲惨の中にある人間の痛みや苦しみを、全く同じように味わう者が、仲保者また救い主となるに相応しいとの、確かな救いのご計画があった。イエス・キリストが処女マリヤの胎に宿った日から、胎の命は、恐ろしいばかりの危険に晒されていた。比較的安定するまでの日々、エリサベツの家に行ったことは大きな助けであった。しかし、ヨセフの苦悩は激しく、どうしたものか悩み抜いていた。やがて二人してベツレヘムに行ったのは、マリヤを一人にする危険が大きかったからと思われる。マリヤは人々の冷たい目に晒され、心を痛めていたに違いなかった。
<結び> 私たちは、主イエス・キリストについて、何を、どのように信じているのかを問われたなら、「使徒信条」を思い出して、その内容を告げられるように、改めて心に刻むことを導かれたい。中でも、このクリスマスを迎える喜びの季節に、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とのくだりを、しっかり覚えたい。もちろん、「十字架につけられ、死にて葬られ」も、「三日目に死人のうちよりよみがえり」も大事であり、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」も忘れてはならない。けれども今朝は、「処女マリヤから生まれ」た主イエスが、私たちの罪からの救い主であられることを、喜び、感謝して、今年のクリスマスの時を迎える第一歩としたい。私たちの喜びや感謝が、周りにいる人々に届くことを願って。
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