礼拝説教要旨(2017.11.26)  =ハイデルベルク信仰問答= 問答:16〜19
仲保者キリスト
(テモテ第一 2:4〜7)(テモテ第一 2:4〜7)

『第二部 人間の救いについて:ただ一人の仲保者  第六主日 
問16 なぜその方は、まことの、ただしい人間でなければならないのですか。答  なぜなら、神の義は、罪を犯した人間自身が
     その罪を償うことを求めていますが、
     自ら罪人であるような人が
     他の人の償いをすることなどできないからです。
問17 なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。
答  その方が、御自分の神性の力によって、
     神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、
     わたしたちのために義と命とを獲得し、
     それらを再びわたしたちに与えてくださるためです。
問18 それでは、まことの神であると同時にまことの人間でもある
   その仲保者とはいったいどなたですか。
答  わたしたちの主イエス・キリストです。
   この方は、完全な贖いと義のために、
   わたしたちに与えられているお方なのです。
問19 あなたはそのことを何によって知るのですか。
答  聖なる福音によってです。
   それを神は自ら、まず楽園で啓示し、
     その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、
     律法による犠牲や他の儀式によって象り、
     御自身の愛する御子によってついに成就なさいました。』

 神に対する不従順、背きの罪を犯した人間は、正しい神の裁きに耐えることはできない。神はご自身の義が満たされることを望んでおられ、完全な償いを求めておられるので、誰一人、神の義を満たすことができないからである。私たち人間は、罪に罪を重ね、日毎に「負債」を増し加えている、というのが現実である。正しい人間であり、同時に真の神である方、そのような方以外に、神と人の間に立つことのできる方はなく、確かな「仲保者また救い主」こそを、私たちは求めなければならない。問答16〜19、その「仲保者」は誰なのか、なぜその方でなければならないのか、明確な問と答が告げられる。裁きに到底耐えることのできない私たち人間のために、神が、「仲保者」であり「救い主」を備えて下さっているのである。

1、問16「なぜその方は、まことの、ただしい人間でなければならないのですか。答「なぜなら、神の義は、罪を犯した人間自身がその罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできないからです。」神に対して罪を犯した事実は、全人類に及ぶものであって、誰かの負債を代わりに償えるのは、神の義を満たす人間でなければならず、その任を果たせるのは、全く罪がなく、聖く、正しい人、全き人でなければならないと言う。問答は続く。問17「なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。」答「その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、わたしたちのために義と命を獲得し、それらを再びわたしたちに与えてくださるためです。」罪に対する神の怒りを一身に受け、それを耐え忍ぶことは人間にはできない。裁きに耐え、神の義を満たし、人間のために義と命を獲得し、これを再び人間に与えることができるのは神だけである。人に命を与えるのは神であり、罪に堕ちた人の命を回復させられるのは神である。全き人であり、同時に神である方だけが、神と人との間の「仲保者また救い主」となれるのである。

2、問17「それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったいどなたですか。」答「わたしたちの主イエス・キリストです。この方は、完全な贖いと義のために、わたしたちに与えられているお方なのです。」神が世に遣わされた御子イエス・キリスト、このお方が仲保者であり、救い主である。神は、全ての人が救われ、真理をさやかに知ることを望んでおられる。(4節)その救いのために御子を世に遣わされた。母マリヤの胎に宿り、幼子として生まれ、やがて人々の前に教えを説く公の生涯を歩み、十字架で命を捨てられた。その死は、罪ある私たち人間の身代わりの死であった。罪に対する神の刑罰を一身に負って、神の怒りを耐え忍ばれた。こうして「完全な贖いと義のために」こそ、主イエスは仲保者の役割を果たされたのである。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者(仲保者)も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(5〜6節)このように、神が私たち人間のために、救いの道を備えられたのは、ひとえに神の愛と憐れみのゆえである。私たち人間は、罪と悲惨の中にあって、自分から神に立ち返ることは決してしないからである。私たちは、どのようにして仲保者のおられるのを知るのだろうか

3、問19「あなたはそのことを何によって知るのですか。」答「聖なる福音によってです。それを神は自ら、まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式によって象り、御自身の愛する御子によってついに成就なさいました。」主イエス・キリストが仲保者、真の救い主であることを知るのは、聖書によってである。その聖書によることを、「聖なる福音によってです」と言う。これは、聖書をどのように読むのかとの大切な指摘である。聖書を単なる書物として読み、研究の対象とする人がいる。また、良い言葉が記されているが、自分には関係がないと言う人もいる。しかし、聖書を「聖なる福音」として読むこと、これが何としても重要となる。旧約聖書も新約聖書も、聖書全体を「福音」として読むことによって、神が私たちを愛して、御子を遣わして下さったことを知ることができる。(テモテ第二3:15) 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。・・・」(ヨハネ第一4:9-10、ヨハネ3:16、5:39) 神がご自身の民をどれ程愛しておられるのか、その愛と恵みの大きさ、深さなど、神がどれだけ憐れみ深く、情け深い方であるのか、聖書全体を通して知ることこそが尊いことである。

<結び> 「聖なる福音」は、創世記の始めより明らかにされている。人が堕落した直後に、人を罪に誘惑した悪魔を打ちのめす、女の末の到来が約束されている。(創世記3:15)族長たちの歩みに、また預言者たちの歩みに、神は御手を伸べておられ、その都度、ご自身の祝福を約束しておられた。そして、儀式律法に定められた事柄の全ては、御子イエス・キリストの十字架を指し示すものであって、聖書を通して、私たちは十字架のキリストを信じるようにと導かれるのである。聖書はそのためにこそ、神の霊感によって書かれた書物である。(ヘブル9:23-28) すなわち、「聖なる福音」は、いつの時代にも、また世界中どこにあっても響き渡り、人が心の目と耳を開くなら、必ずキリストに出会うことができる。そのことを無視して聖書を読むのは、神の愛に触れることなしに、神の前を通り過ごすことになる。そんな過ちを犯すことのないよう、私たちは心して聖書を読み、仲保者キリストの前に額ずくことができるよう祈りたい。キリストは、罪ある私たち(私)の身代わりとなって、十字架の苦しみを味わって下さった。この方を信じ、この方に従って、またこの方が歩まれたその歩みに倣って、今週も歩ませていただきたい。キリストに倣って、そしてキリストの心をもって生きることは、今、この不安定な時代に、何よりも尊いことと思われる。