『第一部 人間の悲惨さについて 第四主日
問9 御自身の律法において人ができないようなことを求めるとは、
神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。
答 そうではありません。
なぜなら、神は人がそれを行えるように人を創造されたからです。
にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、
身勝手な不従順によって 自分自身とそのすべての子孫から
この賜物を奪い去ったのです。
問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。
答 断じてそうではありません。
それどころか、神は生まれながらの罪についても
実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、
それらをただしい裁きによって
この世においても永遠にわたってもわたしたちを罰したもうのです。
それは、
「律法の書に書かれているすべての事を
絶えず守(り行わ)ない者は皆、呪われている」と
神がお語りになったとおりです。
問11 しかし、神は憐れみ深い方でもありませんか。
答 確かに神は憐れみ深い方ですが、またただしい方でもあられます。
ですから、神の義は、
神の至高の尊厳に対して犯される罪が、
同じく最高の、すなわち永遠の刑罰をもって
体と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。』
私たち人間の罪と罪ゆえの悲惨さを知るのは、律法が求めることを完全には行えない自分に気づくことによってである、と問答3〜5で説かれていた。神を愛することも、隣人を愛することも、生まれながらの私たちには不可能なこと、むしろ憎む方へと心は傾いていると。それでは、神は人をそのように造られたのか、と問うと、そうではない。良いものとして造られた人間が神に背き、不従順の罪を犯したから、と答えが続いていた。その罪のため、人は「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いている」と言われ、「神の霊によって再生されないかぎりは」、決して善に向かうのはないのである。そうであるなら、それは神の側に責任があるのでは・・・と、やはり多くの人が疑問を抱くことになる。
1、問9「御自身の律法において人ができないようなことを求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。」答「そうではありません。なぜなら、神は人がそれを行えるように人を創造されたからです。にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、身勝手な不従順によって自分自身とそのすべての子孫からこの賜物を奪い去ったのです。」人が生まれながらにして、善ではなく悪に傾くのであれば、その人間に善を求めるのは不当ではないか、と人は言う。それは人に対する神の不正ではないか・・・と。けれども、答は否である。神はあくまでも、人を良いものとして造られた。「神は人がそれを行えるように人を創造されたからです。」神のかたちに似せて造られた人間は、何の問題もなく、神の律法を守り、神との親しい交わりを喜んで生きていた。「見よ。それは非常に良かった。」(創世記1:31)それなのに悪魔の誘いに負け、神への不従順を選び取り、自分だけでなく全ての子孫からも、神からの賜物を奪い去ってしまった。神に不正があるとは、決して言えないことである。
2、人の心は尚も騒ぐ。問10「神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。」答「断じてそうではありません。それどころか、神は生まれながらの罪についても 実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによって この世においても永遠にわたっても罰したもうのです。それは、『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守(り行わ)ない者は皆、呪われている』と 神がお語りになったとおりです。」(申命記27:26)神は、人の罪、すなわち不従順や背きを見過ごすことはなさらず、それを正しく裁こうとなさる。生まれながらの罪はもちろん、人が日々、実際に犯す罪にも、神の怒りは向けられている。そして神の正しい裁きは、この世においてのみならず、永遠に渡るものである。神の目は、この地上での全てのことに注がれていること、更に、永遠に渡って注がれていることを覚えなければならない。人の目を逃れることはできても、神の目に、私たちの全ては露わである。私たちの心の内を見通す方、その神の前に、私たちはどのように申し開きができるのか。私たちは、自らの悲惨さに絶望する他はないのだろうか。
3、問11「しかし、神は憐れみ深い方でもありませんか。」答「確かに神は憐れみ深い方ですが、またただしい方でもあられます。ですから、神の義は、神の至高の尊厳に対して犯される罪が、同じく最高の、すなわち永遠の刑罰をもって 体と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。」人が神の正しい裁きの前に立ちつくすしかないとするなら、神の憐れみにすがりたいと、私たちが思うは自然である。しかし、神は憐れみ深い方であると同時に、「またただしい方」、義なる神であることを知らねばならない。ただ一人、義なる方、聖にして、正しい方の前に、私たち人間の罪は、神の至高の尊厳を犯す罪である。それゆえ、神ご自身の義に応じて、「永遠の刑罰をもって」罰せられる。その裁きは、「体と魂とにおいて」である。神の尊厳を犯す罪は、それほどに重大で、深刻なものなのである。私たちが知るべきこと、決して忘れてはならないことは、神は憐れみ深い方であり、また正しい方であること、ただ一人の義なる神であることである。神の正しい裁きに耐えられるのは、一体誰なのか。私たちに救いの道は備えられているのか。その救いの道は、確かに備えられている。罪を見過ごすことは決してなさらないが、罪を裁くとともに、完全な赦しの道を備えることによってである。
<結び> 私たち人間の罪と、その罪ゆえの悲惨さについて、誰も言い逃れすることはできない。義なる神は、その正しさによって罪を裁かれる。けれども、神の憐れみの深さは、世の始めより変わることはない。主ご自身がモーセに告げられた。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代に保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すベキ者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(6〜7節)ご自身の正しさをいささかも曲げることなく、その憐れみの深さを示しておられるのが、御子イエス・キリストの十字架の御業である。全人類の罪、いや、私たちの罪(私の罪)を裁くとともに、その罪を赦そうとされたのが十字架の出来事である。御子イエスの死は、私たちの身代わりの死であった。私たちがそのことを知って、十字架の主イエスこそ、私の救い主と信じるなら、憐れみに富む神、また義なる神は、私の罪を御子の身代わりの死のゆえに、完全に赦して下さるのである。(ローマ6:23)この救いに与るようにと、神は絶えず私たちを招いておられる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)憐れみ深く、また義なる神がおられること、それは私たちにとって、大きな慰め、また励ましである。この神に従う者となって、天の御国つながる地上の生涯を、しっかりと歩ませていただきたい。
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