今日は、イエス様を驚かせた男のお話です。イエス様を驚かせたと言っても、後ろからいきなりワッとやって驚かせたわけではなくて、イエス様が思ってもいなかった、(父なる神様から隠されていたのでしょうか、)予想外のうれしい驚きをプレゼントすることができた、幸いな男の話です。イエス様がびっくりされるほど称賛された信仰とは、いったいどんなものだったのでしょう。
さて、6:20以下、イエス様は、付き従ってくる弟子たちに向けて心構えを説いてこられましたが、話し終えられると、いつものカペナウムという町に入られました。そこで、出来事は始まります。1−3節。
1節
イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。
2節
ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
3節
百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
今日の舞台となります「カペナウム」というのは、イスラエルの北方に位置するガリラヤ湖、の、北側に面した町で、イエス様の伝道活動の本拠地とされたところです。漁業を中心とした、比較的大きな地方都市だったようで、ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブもこの町で網を打っていた漁師さんでした。当時の道路図を見ますと、すぐ近くをエジプトとメソポタミヤ地方を結ぶ幹線道路も通っていて、人やモノが行き来する活気のある町だったと思われます。ローマ帝国に納める税金を集める収税所も置かれ、そしてローマの軍隊もこの地に駐留していました。今日、登場いたします「百人隊長」も、その駐留していたローマの軍人のひとりでした。百人隊長とは、読んで字のごとく、ローマの軍隊の100人を統率する隊長のことです。もちろんユダヤ人ではなくて、異邦人です。
その百人隊長が重んじているしもべが病気で死に掛けていた。マタイの福音書によると中風で、ひどく苦しんでいたとあります。中風、脳卒中、脳血管障害。当時、比較的多かったのでしょうか、結構、聖書には中風の人が出てきます。そして、奇しくも、と言いますか、これも神様のご摂理によって、誰かからイエス様の噂が彼の耳に入りました。この百人隊長は、後で見ますように、異邦人ながら、天地の造り主なる神様を信じ、旧約聖書も信じていた、熱心な信仰者でしたから、イエス様のうわさを聞いて、この方は神様が遣わされた偉大な預言者と思ったか、あるいはさらに進んでメシア、救い主とわかったか。いづれにせよ、重んじていた大事なしもべを助けるために、すぐさま、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、助けに来てくださるようにとお願いした。。。ローマ帝国側、すなわちイスラエルを支配する側から遣わされていた百人隊長が、支配される側のユダヤ人であるイエス様に助けを求めてお願いしにきたという、これだけでも考えてみれば、ちょっと驚きの光景であります。虎の意を借る狐よろしく、ローマ帝国の権威をかさに着て、来い、と命令することもできたでしょう。しかしそうはしないで、礼を尽くしてお願いしました。異邦人である自分が直接行くのも、ユダヤ人に対しては失礼、―ユダヤ人は異邦人を汚れたものと見なしていましたから、−それで、ユダヤ人の長老たちに口を利いてもらって、どうか助けてください、とお願いしました。なかなか立派な人のようです。それで、もともとは、異邦人を毛嫌いするユダヤ人の長老たちでさえ、この人に関しては心から受け入れていたようで、「熱心に」百人隊長のために推薦の弁を述べました。4−5節
4節
イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
5節
この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
当時、ユダヤ人たちの礼拝のために、会堂を一つ建ててあげたというのは、並々ならぬ功績でして、ユダヤ人たちは、この百人隊長の功績を評価して、「この人は、そうしていただく資格のある人です。」と太鼓判を押しました。それも、ただ会堂を建ててくれたと言っただけでなく、「私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」と絶賛なのです。異邦人、外国人のことは、毛嫌いし、見下すことが多かったユダヤ人たちから、こんなふうに言われるということは、本当によい信仰者であり、よほどの人格者でもあったのでしょう。
ところが!です。そんなユダヤ人たちの推薦の弁とは逆に、彼自身の口から出た言葉は、まったく逆の言葉でした。6節
6節
イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ユダヤ人たちの「この人はそうしていただく資格のある人です。」という言葉には、イエス様は否とも応ともおっしゃらず、その人のところに向かわれました。そして当の百人隊長自身はと言えば、「あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。」というものだったのです。あれだけのことをしていながら、しかもユダヤ人達からも、あれだけの評価をされながら、なお、イイ気にならず、こう弁えていた、というのですから、一層、驚きです。只者ではないな、というところです。
神様のきよさを弁えていると言うのか、己の罪深さ、汚れを弁えていると言うのか。人と比べているだけだったら、会堂ひとつ建てた、というのは、大変な功績です。たとえば、もし仮に、自分がポーンとお金を出して、東京のど真ん中に会堂ひとつ、建てて寄贈しました、なんてことをしたら、ついついいい気になって、イエス様からお願いの一つや二つ、聞いてもらってもバチが当たらないだろう、なんていう気になってしまうかもしれません。でも、この百人隊長は、イエス様をどういうお方か、弁えていたと言うのか、自分を弁えていたと言うのか。己のわずかばかりの功績に目がくらんで、イエス様と自分の関係を見誤ってしまうことがありませんでした。「あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。」まさにその通りでした。私たち人間の罪というものは、会堂の一つや二つ、いや、百や二百建てたって、帳消しになるようなものではありませんでした。何かの功績によって、帳消しになる程度の代物ではないのです。尊い、きよい生ける神の御子の血潮によらなければ、消えることのないものだったのです。だからこそ、御子は、人となって世に来てくださった。だからこそ、御子は、十字架にかかって、ご自身のきよい血潮を流された。。。
私たちは、キリストの十字架をいつも、心の真ん中に据えておかなければいけないと思わされます。自分が何かをしたから、これだけ奉仕しているから、これだけ捧げているから、神様は私のいう事を聞いてくれて当然、と功績を誇る気持ちが少しでも出てきたら、すぐに十字架の前に額づいて、自分の心得違いを恥じるべきでしょう。そして自分が救われているのは、100%、ただ恵みによるのだ、と、むしろ感謝の心を取り戻させて頂きたいと思います。
この百人隊長が、自分にはイエス様を家にお入れする資格がない、と言った言葉も、別な言い方をすると、自分が願いを聞いていただけるのは、恵み以外にない、という事だと思います。資格があるのではない、権利があるのではない、ただ恵みのみ。それだけ。おそらく彼は、この世界を造られた神様は、恵み深い方だということも、旧約聖書から知っていたのだろうと思います。神様が恵み深い方であられることを知る事は、とても大切なことです。私たちの信仰のベースになることです。ですから彼は、一方では、自分にはその資格がない、としながらも、だからといってあきらめるのではなくて、大切なしもべを救うために、恵みにのみ、希望を置いて、すがりついた。それでいいのです。百人隊長から遣わされた友人たちは、ことばを続けます。7−8節
7節
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
8節
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
いかにも軍人らしい理解です。彼は、イエス様という方は、ことばだけで、病でも何でも従わせてしまう、絶対的な権威があると理解しました。ご存知のように、当時、ローマ帝国は、一糸乱れぬ、泣く子も黙る最強の軍隊を誇っていました。その軍という組織においては、上官の命令は絶対です。そうでなければ、戦争に勝つことはおろか、味方を危険な目に合わせてしまうかもしれないし、場合によっては仲間のいのちを失わせてしまうことになる。だから、上官の命令、言葉は絶対でした。百人隊長自身も、ローマ皇帝なり、自分の上に立つものの命令には、絶対服従していたはずですし、また自分の部下にも、命令を出せばその通りにする。権威を伴った言葉というものを、彼は身をもって感じて、知っていたはずです。で、この百人隊長は、イエス様を、神様から権威と共に遣わされた聖なるお方と理解したのでしょう。ローマ皇帝以上の、病に対してさえも、出て行け、と言えば、そのみ言葉の前にひれ伏して従う。そのような権威を持ったお方と信じたのでしょう。ですから、お言葉だけで十分です、お言葉をください、と、お願いした。
この、み言葉に対する信頼も、深く心に留めておきたいと思わされます。イエス様の救いの約束の御言葉は、たとえ天地が崩れ去ろうとも変わることのない、確かな御言葉です。「わたしは、あなたを見放さず、決して捨てない。」と仰ったイエス様の御言葉は、たとえ私たちが火の中を通らされる時も、大水が押し寄せてくる時も、変わることなく真実です。この地上の生涯を走り抜けたあとの、向こう側の世界にいっても、変わることのない真実です。
また、使徒パウロは、ローマ人への手紙4章で、信仰の父と呼ばれるアブラハムの例を挙げて、私たちの信仰を励ましています。聖書の一番最初の書、創世記に出てくるアブラハムには、子どもがないまま、老齢になっていました。しかし、生物学的には不可能となっていたアブラハム夫婦に対して、神様は子孫を与えると約束されました。そしてアブラハムはその神様の御言葉を信じました。その信仰を、神様は義と認められました。そしてその結果、約束の通りになりました。このことは、ただアブラハムのためだけでなく、アブラハムの信仰にならう私たちのためでもあったとパウロは言います。すなわち、イエス・キリストを、死者の中からよみがえらせた神様を信じるなら、私たちもその信仰が義と認められるのだと。キリストは、事実、死を打ち破って栄光の内に復活されました。それは私たち、後に続くものの初穂として、まず最初に復活されたのです。そのことを信じる私たちも、世の終わりの時、歴史の完成の時には、栄光の体をもって復活させていただけます。イエス様は、終わりの日に、ひとりひとりをよみがえらせます、と約束されました(ヨハネ6:40)。キリストの復活は、世の終わりに神様がなさることを、予め見せてくださったという意味もあるのではないかと思います。神様が定めておられる歴史のゴール、最終局面に、神様はキリストを信じる一人一人に、永遠の御国を受け継がせてくださるために、このように、一人一人を栄光の内に復活させるのだよ、と、デモンストレーションされたのかな、とも思います。このいのちのみことば、神様のお約束の言葉をしっかりと心に固く握りしめていたいと思います。
9−10節
9節
これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
10節
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。
イエス様が驚かれた信仰とは、神様の恵みにのみ、より頼みつつ、イエス様のお言葉は必ずその通りになるという堅固な信仰だったのではないか、と思います。
参考までに、カルヴァンのキリスト教綱要Vの中にある一節から「真実な信仰者とは、堅固な確信をもって、神が自分に憐れみ深く、いつくしみある父であると確信して、その好意から、すべてのものを自分に与えてくださると期待する者である。」(東北学院大学社会学部紀要第58号、村川、)この信仰をもって、約束のものをしっかりと頂く幸いに与らせて頂きたいと心から思います。
もちろん、こういうことを確信する事ができるようになるのも、聖霊のお働きによります。ですから、御霊の助けを仰ぎつつ、なおなお、信仰において成長させていただき、その信仰に到達できますように、祈り求めていきたいと思います。
|
|