『第一部 人間の悲惨さについて 第三主日
問6 それでは、神は人をそのように邪悪で倒錯したものに
創造なさったのですか
答 いいえ。
むしろ神は人を良いものに、また御自分にかたどって、
すなわち、まことの義と聖において創造なさいました。
それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、
永遠の幸いのうちを神と共に生き、
そうして神をほめ歌い賛美するためでした。
問7 それでは、人のこのような腐敗した性質は何に由来するのですか。
答 わたしたちの始祖アダムとエバの、
楽園における堕落と不従順からです。
それで、わたしたちの本性はこのように毒され、
わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくるのです。
問8 それでは、どのような善に対しても全く無能で
あらゆる悪に傾いているというほどに、
わたしたちは堕落しているのですか。
答 そうです。
わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。』
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」この告白に私たちの「ただ一つの慰め」があると答えて始まった問答は、その慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬためには、私たち人間の罪と悲惨さを十分に知ること、そこから救われる道を知ること、救われた者が神に感謝することの大事さを説く。本論となる問答3以下、人間の罪の悲惨さからの救い、キリストの福音の中心をより一層明らかにする。問答3〜5では、私たちが自分の罪ゆえの悲惨さについて、神の律法によって、それを知らされると説かれていた。しかし、そのことについては、すぐさま疑問が湧いてくる。
1、神の律法が、私たち人間に、人間の不完全さを気づかせ、大切な戒めを完全には守れない現実を突き付けるものなら、神は人間をそのような不完全なものとして造られたのか、と問いたくなるからである。問6「それでは、神は人をそのように邪悪で倒錯したものに創造なさったのですか。」多くの人がこのように問う。しかし、答「いいえ。むしろ神は人を良いものに、また御自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。」神の創造の意図こそ大事である。神は、ご自身のかたちに似せて、人を良いものとして造られた。これが始まりであった。神の「かたち」という中身は、「まことの義と聖において」と言われるように、神の義と聖に似せられていた。それは、神を知り、神を愛し、神と共に生きることを喜びとし、神を賛美して生きるためであった。最初の人、アダムとエバは、そのような神との交わりの中で神と共に生きていたのである。(創世記1:26-27、31、エペソ4:24、コロサイ3:10)
2、では、一体何があったのか、誰もが疑問を抱く。問7「それでは、人のこのような腐敗した性質は何に由来するのですか。」答「わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくるのです。」神との、親しくまた幸いな交わりが続くために、神は人に、一つの戒めを与えられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは死ぬ。」(創世記2:15-16) 蛇に唆されたエバが食べ、アダムも食べた。こうして神の戒めに背く不従順、不服従の罪に堕ちたために、全ての人の本性が損なわれ、「わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくる」という、恐ろしい罪の連鎖の中に閉じ込められたのである。これこそが、私たち人間の罪の事実であって、その悲惨さは言葉では言い表せない大きさである。私たちは、その現実を理解しなければならない。
3、問8「それでは、どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。」答「そうです。わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。」私たち人間が罪に堕ちて、悲惨の中に閉じ込められている状態は、神が善しとされることに背を向けた状態である。幾らかでも善に向かうことがある・・・と思いたい。しかし、現実は善に対しては全く無能で、あらゆる悪に傾いていることを認めねばならない。けれども、神が備えて下さった救いの道がある。私たち人間の力では不可能なことを、神ご自身が打ち破り、不可能を可能とする道を備えておられる。それは「神の霊によって再生される」道、聖霊によって新たに生まれ変わるという、確かな救いの道、解決の道筋である。「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』・・・『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。・・・』」主イエスは、人は、聖霊によって新たに生まれ変わることによって、神の国に入ることができると、はっきり言われたのである。罪の悲惨さの中に沈むばかりの私たちには、神の御霊によって再生させられる道が備えられている。その救いの道こそ、感謝して歩むべき道である。(ヨハネ3:1-8)
<結び> 神は人を良いものに、ご自身のかたちに似せて造られた。にも拘らず、人は神に背き、罪に堕ちて悲惨の中に閉じ込められた。その悲惨さに、人は自分では気づかないという悲惨さがある。罪に堕ちた人間を、神は必ず裁かれるが、同時に私たち人間を愛して、罪の中、悲惨の中から救い出そうとされたのである。聖霊による再生、新たに生まれ変わるという救いの道を備え、罪の赦しのために、御子イエス・キリストの十字架の御業を成し遂げて下さったのである。私たちに聖霊が働く時、私たちはキリストを救い主と信じる信仰へと導かれる。こうして新しく生まれ変わることによって、私たちは悪を離れ、また悪を憎むことを教えられ、最初の良い状態、造り主のかたちに似せられた「まことの義と聖」を身に着せられる栄誉に導かれる。私たちがイエス・キリストを信じることには、このような、神の創造の御業の回復という、崇高な事柄が含まれている。「神は人を良いものに」お造りになられ、人が神を知り、神を愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、神をほめたたえることを神は望んでおられる。この神の御思いを知って、神を喜び、神と共に生きることを、この週も、しっかり覚えて歩ませていただきたい。
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