『第一部 人間の悲惨さについて 第二主日
問3 何によって、あなたは自分の悲惨さに気づきますか。
答 神の律法によってです。
問4 神の律法は、わたしたちに何を求めていますか。
答 それについてキリストは、マタイによる福音書二二章で
次のように要約して教えておられます。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし(、力を尽くし)て、
あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。
答 できません。
なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと
生まれつき心が傾いているからです。』
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」ここに私たちの人間にとっての本当の慰め、「ただ一つの慰め」がある。この慰めは真実で、決して揺らぐことはない。三位一体の神が私たちを、しっかり保持していて下さるからである。この慰めの中で、喜びに満ち生きまた死ぬために、知るべき三つのことがあると、問答2が続いていた。私たち人間の罪と悲惨がどれだけ大きいか、そこから救われるにはどうするのか、救われたなら、どのように神に感謝するのか、の三つである。こうして信仰問答は、人間の罪の悲惨さを知ること、そこから救われる道筋を明らかにすることの本論へと進む。
1、「何によって、あなたは自分の悲惨さに気づきますか。」この問は、神に背を向けている人間にとって、答に窮する質問である。すなわち、罪と悲惨の中にいる限り、それが当然であって、そこから抜け出そうとは考えず、そのままで良いからである。そのような人間に対して、神の側からの働きかけとして、神は律法を備え、それを示し、私たちに歩むべき道を教えて下さっている。けれども、それは歩むべき指針というより、私たち人間の本質を暴き出すもので、そのことを知ることがカギになる。神がご自身の「律法」を人に示されたのは、確かに、人が人として生きる指針としてであって、それは「戒め」また「掟」であった。その「律法」について、主イエスは「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と言われた。(34〜40節)「十戒」で明らかにされたこと、またレビ記や申命記で明らかにされている大事な教えを、主イエスは、「たいせつな戒め」として二つに要約されたのである。
2、神の律法として誰もが知っていたのは、恐らく「十戒」である。その前半と後半は、明らかに神ご自身に関わることと、自分の周りにいる人々とに関わることに分けられる。それらを覚えた上で、主イエスは申命記の言葉を引かれた。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5) またレビ記の言葉を。「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18) 神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することは、別々にすることのできない、表裏一体の教えで、一番「たいせつな戒め」である。神によって造られ、生かされている私たち人間が、決して忘れてはならない「戒め」である。申命記では、自らの心に刻み、子どもたちに「よく教え込みなさい」と命じる。しかも「・・・寝るときも、起きるときも・・・」とも。それほどに大事な教え、「たいせつな戒め」なのである。
3、ところが、その「たいせつさ」「大事さ」について、人はなかなか理解することが難しい。問5「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。」答「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」戒めを守ることのできない自分を、私たちはどのようにして受け入れるのだろうか。通常は、何とかして戒めを守ろうとするに違いない。守れない自分に気づいても、周りの人と比較しながら、ちょっとでも優れている自分を探そうとする。そのようにして自分の内面には触れず、外面のみで安心しようとする。せっかくの神の律法をないがしろにして、自分で自分を褒めるのはもちろんのこと、人からの栄誉を求め始める。しかし、それは神が望まれることではない。神は、神の律法を通して、私たち人間が罪に気づき、また罪の悲惨さに気づくことを望んでおられる。神を愛するどころか、反対に憎むばかりの自分、隣人を愛そうとしても、かえって憎むばかりの自分に気づくことこそ、神が願っておられることである。私たち人間の心は、生まれながらのままでは、神が望んでおられる善には向いていないこと、その悲惨さこそ、私たちは知らねばならない。「たいせつな戒め」の大切さは、私たち人間に、人の罪の大きさと悲惨さを教えてくれることにある。
<結び> 「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」このように答えるのに、私たちは、果たして本心からそう言っているかどうか、自問自答することが求められている。神の律法を知ってはいても、それは神が求めておられる善の基準であり、人間が目標とする徳目と思い込んではいないだろうか。自分自身の悲惨さなど、思いもせず、気づきもせずに通り越してはいないだろうか。神を愛そうとしても愛せないどころか、神を憎むばかりに、私の心は傾いていると、心から認め、神の前に心砕かれるのを良しとしなければならない。また自分の隣人を愛するどころか、憎む方へと心は傾いている事実を認め、神の赦しなしには立ち行かない自分を知らねばならない。そして、心を砕かれ、神の助けを求める者となるように祈るほかない。神が遣わして下さった救い主、神の御子イエスがおられないなら、私たちは罪と悲惨の中に閉じ込められたままである。自らの悲惨を知って、十字架の主イエスを仰ぐ者、キリストを救い主と信じる者として、罪の赦しを喜び、感謝をもって、この週も歩ませていただきたい。
(ローマ3:23-24、6:22-23)
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