『序 ただ一つの慰め 第一主日
問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、
あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。
答 三つのことです。
第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、
第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、
第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、
ということです。』
私たち、主イエス・キリストを信じる者にとって、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問われて、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も・・・イエス・キリストのものです」と答えるのが、ハイデルベルク信仰問答の始まりである。私たちは、三位一体なる神が生きて働かれることによって、罪の赦しを与えられ、日々守られ、揺るがない者として整えられている。救いの恵みは、日々新たに注がれ、神の民、また神の子として歩ませていただくのである。問答2は、その信仰者としの歩みを、一層確かなものとして歩むため、知っておくべきこと三つが挙げられる。
1、「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか」との問に、「三つのことです」との答が続く。「喜びに満ちて生きるために」と問うのでなく、「・・・生きまた死ぬために」と問う。キリストのものとされた者の生涯は、生きている時だけに止まらず、生も死も含まれている。キリストにあって生きる者の喜びは、死においてさえ、一点の曇りや陰りもないものである。すなわち、キリストのものとされた私たちは、ただ一つの確かな慰めを持つゆえに、この地上の生涯を生き抜くことができるだけでなく、死においても、キリストの御手の中で喜びをもって息を引き取ることができるのである。この慰めをより確かに得るために、私たちが知るべきことが三つある。その第一は、私たち人間の罪と悲惨がどれほどに大きいかを、本当に知ることである。言い換えれば、私たちは、なかなか自分の罪の大きさを知らず、その悲惨さに心を痛めることがない。そのために、神が備えて下さった救いの道に気づかず、大いなる恵みに無頓着となっている。人間の罪とその悲惨さに気づくことによって、私たちは、確かな慰めをいただいて、喜びと感謝に溢れることができるのである。
2、第二は、どうすれは、そのあらゆる罪と悲惨から救われるかを知ることである。「どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか」を知らない内は、そこから救われる必要に気づくことはない。けれども、罪に気づき、その悲惨さに気づくなら、そこから救われる道があるかないかに、必ず心は向くはずである。しかも、自力では決して解決の道がないと分かるなら、神が備えて下さった救いの道に目が開かれ、心が開かれるのである。一度、神に背いた人間の心の頑なさは、まことに凄まじいものがある。神に並ぼうとしたのであり、その時以来、神を見下し、自分こそが一番と驕り高ぶっている。罪を罪と思わず、富を蓄え、罪に罪を重ねるのが、この世の多くの人の生き様である。神がおられ、この神の前に心を低くして生きること、神の光の前に出て、自らの内に罪があることを認め、罪を言い表すのをためらわず、素直にひれ伏すなら、その人を神は良しとして下さるのである。その人のために、主イエスは十字架で身代わりの死を遂げておられた。罪を悔い改め、主イエスの十字架を仰ぐ時、私たちは罪の赦しいただくことができる。この救いの道こそ、神が備えて下さった最高の贈り物なのである。(5〜10節)
3、知るべきことの第三は、救いの道を知り、その救いに与った私たちは、どのようにして神に感謝すべきかを知ることである。救われた者として、いかにして神に感謝するのか、そのすべを知って、感謝の日々を送るかどうかである。聖書が教えていることは、単なる知識や道徳の徳目なのではない。それは信じる私たちに、生きるにも死ぬにも、この方と共にある喜びを与えてくれる「真理」そのものである。その「真理」は私たちを自由にし、キリストにあって、「力」や「勇気」、また「知恵」を与えてくれるものである。あらゆる罪と悲惨とから解き放たれ、罪の赦しを与えられて生きる日々、それこそ喜びと感謝に満ちて生きる日々となる。その人は、この地上を去る日がいつ来ようと、神への感謝を忘れることなく生きることができる。私たちは、そのように生き、また死ぬことを良しとさせていただきたい。具体的には、神への感謝が、隣り人への感謝となって表れること、神に仕えることが、人々に心から仕えることとなること、神を愛しているなら、人々への愛もまた豊かなものとなることなど、心から祈って実を結ばせていただきたい。(ヨハネ第一2:4-6,4:7-11)
<結び> 私たちは、やはり自分の罪とその悲惨さに、しっかり目を留めなければならない。知るべき第一のこと、それは自分の罪の深さである。自分ではどうすることもできないものが、自分の罪であり、その悲惨さである。その罪を取り除くために、キリストは十字架で血を流して下さった。キリストの十字架の死は、私の身代わりの死であったと知ること、そして、神が備えて下さった救いの道、また恵みの御業を心から感謝し、神を喜び、神の恵みに応えて生きること、この三つのことを知って、生涯変わることなく生きることを導かれたいと思う。そのように願っていても、私たちの心は揺れ動くことがある。けれども、私たちは自分を頼るのでなく、神に頼り、内に住む聖霊に導かれることを知っている。弱さのあること、愚かさの極みであることも知っているので、やはり、神が生きて働いで下さることに依り頼みたい。使徒パウロが語るように、私たちも、「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と告白して歩みたいと思う。(コリント第二12:9-10)神は必ず、私たちを支え、導いて下さる。そのことを信じて・・・。
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