<導入>
@アウグスティヌス(A.D.354-430)。カトリックからもプロテスタントからも尊敬され、大きな影響を与えている神学者。ヒッポ(北アフリカ、今日のアルジェリア北東部の地中海に面した町)の大司教。彼の生きた時代はローマ帝国末期で、道徳的退廃と外部からのフン族による侵入により、ローマ帝国崩壊の兆候が見られた、不穏な時代。代表的な著作の一つ「告白」は、彼が幼少期から40歳くらいまでの記憶をたどって罪の遍歴を神に向かって告白し、また神の大きな恵みと赦し、そして愛のゆえに、賛美を捧げている著作。その冒頭の祈りの言葉。「あなたは私たちをご自身にむけて
おつくりになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです。」(山田晶訳、中公公論社、世界の名著14より)
A一説によると、聖書の中には「恐れるな」「恐れてはいけません」etcという言葉が365回も出てくるという。一日一回は言われている事になる。この数字の真偽は確認できていないが(ちょっと出来すぎな感じがしなくもない?)、これに類した表現がけっこうたくさん出てくるのは確か。それほど人の世には恐れが多いという事なのでしょう。どうしてでしょう?それは、全世界の造り主なる神様から離れてしまったからです。いのちの源であられる方から離れてしまったからです。ですから逆に言うと、神様の元に戻ることができたら、平安が回復するのです。迷子になっていた子供が親元に戻ることができてほっとするように。私たちが神様の元に戻るなら、神様の方から私たちのところに来てくださいます。神様の臨在が与えられます。神様とともに生きる生活が、真の平安をもたらすのです。イエス様が与えると仰った「わたしの平安」とは、この、神がともにいてくださる平安です。
ヨハネ14:27:わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
<解説>
@ここは、イエス様が十字架にかかられる前夜、弟子たちに語られた言葉で、告別説教とも言われます。イエス様は十字架にかかられてから三日目に復活されて、その後40日間も復活されたお姿で弟子たちに現れてから、弟子たちの見ている目の前で天に上げられ、雲に包まれて見えなくなりました。あとにはポカーンと口を開けて天を見上げている弟子たちが残されることになるわけです。弟子たちにしてみれば、自分たちだけ残されて、イエス様が天に上げられてしまったら、不安になるのも無理はないでしょう。ですから、そんな弟子たちに向かってあらかじめ「わたしは決してあなたたちを一人にしないから、大丈夫ですよ。ちゃんと私の代わりにもう一人の助け主(聖霊)をあなた方のところに送りますから」と励ましておられます。(14:16、18)父、子、聖霊の三位一体の神様の聖霊なる神様が、私たちのところに遣わされて、来て、住んでくださる。この神様がともにおられる平安、神様の臨在がもたらす平安こそが、イエス様が与えてくださる平安です。
Aところで、聖霊が私たちとともにおられるという時、聖書は三種類の言葉を使っているようです。英語でいう前置詞で説明すると分かりやすいのですが、一つはupon。上に。だれそれの上に聖霊が臨まれて、〜した、という言い方。これは特別な機会に、多くの場合何かの使命のために特別に臨まれる時に使われるようです。二つめはwith。だれそれとともに、いっしょに。隣にいてくださるイメージでしょうか。横にいて、励ましたり、導いたり、ある時には盾となって周りから守ってくださったり、共に歩んでくださる。三つめはin。私たちの内に来て住んでくださるイメージ。それで私たちの体は「聖霊の宮」とも言われます(第一コリント6:19)。私たちの側で実感していてもいなくても、イエス様を信じているならば聖霊が与えられて、内側に住んでおられます。この神の臨在を覚える時に、存在の不安とでもいうような根源的な不安が徐々に癒されるのかもしれません。私たちの内に住み込んでまでして、私たちの存在を全力で肯定してくださっている神様のご愛がわかって、深い喜びがわいてくるのかもしれません。それは私たちの内側、内面を強めてくれるでしょう。
Bそれに対してここでイエス様が対比している「世が与える平安」とはどういうものでしょう?ある人は、神からくる平安と区別して、世が与えるのを安心と呼んだりしています。世が与える安心とは?何はなくてもまずお金?モノ?職場や親戚との人間関係?もろもろの環境、状況。。。これらは外から与えられる安心と言えるでしょうか。もちろんこれらのものも大切です。これらのためにどれだけ苦心し、苦労している事でしょう。それも必要な事です。やがて来る完成した神の国では、外側の環境もすべてが平和と秩序をもっているでしょう。ただ、今の世では、残念ながらそうではありません。これらのものは、うつろいやすく、不安定です。思い通りにならないこともしばしばです。だから恐れがつきまといます。さらにまた、もし仮にすべての外部環境が整ったとしても、それで平安でいられるか?というと、それも疑問です。今度は失う事への恐れ、そしてモノでは満たされない内面の何かに気付くのかもしれません。死という最後の敵の影はつきまといます。それは、いのちの源であられる創造者、神様から離れているからです。木から切り離された枝は、やがて枯れるように、いのちの源から切り離された人間もそうなのです。ですから、私たちは、神様とともに歩むという事が、一番の土台として必要なのです。
<適用>
実例をいくつか。旧約聖書の一番最初、創世記という所にヤコブという人が出てきます。彼は、自分のしでかした悪のゆえに兄から憎まれ、家にいられなくなって、遠く見知らぬ土地に住む母方の親戚の所に逃げなければなりませんでした。その旅の途中、恐れと不安でいっぱいだったに違いないヤコブに、神様は一つのはしごが天から地に向けて立てられ、その上を神の御使いたちが上り下りしている夢を見させられました。そして主が彼のかたわらに立って「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と仰いました。眠りから覚めたヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました。(創世記28:10-16)そして実際に彼は無事に故郷の地に戻ってくるのです。
またヤコブの息子のヨセフも、17歳の時、兄たちの妬みによって親元から引き離され、遠い異国の地で、それも奴隷に身を落として、どれほど不安だったことでしょう。ところが、「主が彼とともにおられたので」かえって彼はどこにいても祝福され、ついには不思議な神様のお導きによって、エジプト王パロに次ぐ地位について、多くの人々を飢餓から救いました。
また遠い昔の話ばかりではありません。今から約5年ほど前、東日本大震災に被災され、その後の原発事故で教会丸ごと流浪の民となられた、福島第一聖書バプテスト教会という教会があります。ご存じの方も多いかと思います。そこの牧師は佐藤彰先生と仰いますが、震災の日、先生はちょうど東京の神学校の卒業式に出席しておられたそうです。東京でも大きな地震でしたが、地元が大変なことになっているとすぐにわかって、胸が押しつぶされるような不安の中、すぐに車で福島へと向かわれました。何しろ、原発の真ん前の教会です。信徒の事を思うと、生きた心地がしなかったと思います。その時、奥様と話されたそうです。だれか一人くらいこう言うのではないか? 「もう神は信じない」「神はよほど私たちが憎いのか、よほど福島の地がお嫌いなのか?」と。そのように詰め寄られても、返す言葉がないのではないか―佐藤 先生はそのように思われたそうです。しかし、実際にはそうではありませんでした。あるご夫人は膝まで津波につかり、あとは泳ぎながら必死に逃げました。ある40代の女性は、津波に追われながら車のアクセルを全開にしました。また、ある60代の女性は心臓に不調を来たし緊急手術をされましたが、手術直後に、医者から「申し訳ないけど、放射能がやってくるからすぐに逃げてください」と言われて、必死で逃げたそうです。みなひどい体験です。しかし、皆が口ぐちに言ったそうです。「先生、この時ほど神様を感じたことはありません」と。神様に救われたんだと、口をそろえて言ったそうです。 そういう文字通り生きるか死ぬかの極限状態の中で、神さまの守りを、ひしひしと感じられたんですね。佐藤先生は言われます。「そうか、私の愛する教会員はどこへ行ったのかと心配していたが、違いました。彼らは神様に愛される一人ひとりでありました。今ごろ気づいたのか、と神様に言われた気がしました」と。一切合切が剥ぎ取られ、思い出から過去から、預金通帳から家から、すべてが剥ぎ取られ、揺すぶられ、家族もばらばらにさせられてあらゆる安心の土台や条件が押し流されていく中で、なお、残るものがあった。 決して変わらないものがそこにあった。主イエス・キリストにある神の愛、どんな時もともにいてくださる主の聖なる臨在だと、言うんですね。(佐藤彰著『続・流浪の教会』、いのちのことば社)
イエス様の与える、イエス様の平安は、全知全能の、全宇宙の造り主なる神様が、私たちとともにいてくださるという平安です。試練の中でも、その真っただ中で、ともにいてくださる神様を信じ、時に実感して、ますます神様のご愛を確信させてくれる、不思議な平安です。試練の中にいる時こそ、いつにもまして神様は近くにいて下さいます。だってそうでしょう。私たちでさえ、自分の子どもが元気な時は、それはそれでうれしくてこちらも幸せな気持ちになるものですが、子供が高熱を出したり病気になったりして苦しんでいる時、いつも以上に私たちの心は子どもに向けられ、ちょっとした変化も見逃さないよう心は子どもに張り付いて、そばから離れないでしょう。ましてや神様は、です。試練の中を通らされている時、いつにもまして近くにいて下さり、ともにいて下さり、支えていて下さらないはずが、あるでしょうか。
<勧め>
イエス様は「インマヌエルの主」とも呼ばれます。インマヌエルとは、神がともにおられるという意味です。神様と私たちがともに歩むことができるために、神の御子キリストは、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかり、そして復活されました。罪を持ったままでは神様の元に戻ることができないからです。使徒の働き2章で使徒ペテロはこう言っています。使徒2:38-39「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」すでに信じている人も、悔い改めと信仰はいつでも必要です。イエス様の似姿という気の遠くなるようなゴールを思うと、そうでしょう。イエス様に信頼し、神様に信頼していきましょう。
最後にみ言葉をいくつか。申命記31:6、イザヤ41:10、43:1-5前半、ヘブル13:5。
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