『序 ただ一つの慰め 第一主日
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、
体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主
イエス・キリストのものであることです。
この方は御自身の尊い血をもって
わたしのすべての罪を完全に償い、
悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ
髪の毛一本も落ちることができないほどに、
わたしを守ってくださいます。
実に万事がわたしの救いのために働くのです。
そうしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、
今から後この方のために生きることを心から喜び
またそれにふさわしくなるように、
整えてくださるのです。』
「ハイデルベルグ信仰問答」は、生きるにも死ぬにも、私たちの「ただ一つの慰め」は何かを問うて、私たちが私たちのものではなく、「体も魂も、キリストのもの」と答える問答で始まっている。答の後半は、「ただ一つの慰め」の根拠を、順次明らかに述べる。御子イエス・キリストの十字架の贖いのみ業、父なる神の確かな守り、そして信じる者を神の子として下さる聖霊なる神の働きを、一つ一つ説き明かしている。確かな慰めの根拠、それは三位一体の神が、生きて働いておられるからに他ならない、と言うのである。
1、「そうしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、整えてくださるのです。」「生きるにも死ぬにも、私たちはキリストのものである」ことの根拠の第一は、私たちをご自身のものとするために、尊い血を流して、罪から解き放って下さったことにある。第二は、キリストのものとされた私たちを、父なる神はしっかりと守り、支えて下さっていることにある。そして、第三は、聖霊なる神による保証があることにある。すなわち、聖霊が働くことによって、私たちは「キリストのものである」ことを確信するよう導かれ、また、父なる神の御手の中にあって「守られている」ことを知って平安を与えられる。そして、「永遠の命」を与えられたことを感謝し、喜びをもって地上の生涯を生きるように導かれるのである。そればかりか、聖霊は私たちに働きかけ、私たちが「キリストのもの」として相応しい者となるよう、整えて下さる。私たちは、キリストのものであることを喜び、神の民、また神の子としての歩みを、聖霊に導かれて生きることになるのである。
2、この聖霊なる神の働きこそ、実は、私たちに直接関わる、カギとなるものである。創造主である神が天と地を造られ、最初の人間を造られ、神がお造りになったすべてのものを見られた時、「見よ。それは非常に良かった。」(創世記1:31)けれども、人間が神に並ぼうとして、神の戒めに背いた時から、人に罪が入り、あらゆる悪に染まり、死が全人類に及ぶこととなった。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」となり、人類はありとあらゆる悲惨の中に閉じ込められたのである。けれども、神は御子イエス・キリストを遣わし、十字架で血潮を流すことによって、罪を赦し、確かな救いの道を備え、心から信じる者を救おうとされた。ところが神に背いた人間は、人間の側から神に近づくことなど、全く有り得ない存在となっている。何をしたとしても、神からは遠ざかるばかりで、救いに至る良きことは、何一つ人間の側からは成し得ないのである。それ故に、少しでも神に近づくことがあるなら、それは正しく、神ご自身の働きが先行してのみ起り得ることである。すなわち聖霊が働いて、私たち人間の心は、初めて光を見ることができる。こうして、神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じる信仰が芽生えるのである。私たちは、聖霊に導かれて、永遠の命を与えられて生きる喜びをいただくのである。聖霊なる神が私の内に住み、私を導き、励まして下さる。自分の確信が揺らぐことがあっても、御霊ご自身が、私たちを神の子として立たせ、力づけて下さるのである。(9節、14〜16節)
3、「永遠の命」とは、「いつまでも死なない命」のことと思うかもしれない。しかし、聖書は「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたを遣わされたイエス・キリストを知ることです」と言う。(ヨハネ17:3) 神を知り、神と共に生きることを喜ぶこと、生きるも死ぬも、神と共にあることが「永遠の命」そのものと言える。そのような日々を喜ぶのは、聖霊による保証なしには、決して有り得ない。こうして、「今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、整えてくださる」のは、ひとえに「聖霊なる神」の働きなのである。使徒パウロは次のように語っている。「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(コリント第一12:3)聖霊なる神の働きによって、私たちを「整えてくださるのです」という側面を、私たちは感謝をもって覚えることが大事である。自覚し、努力を積み重ね、信仰が増し加えられ、成熟して、霊においても大人になることが求められている。けれども、肝心なことは聖霊が働いて、私たちはキリストにあって生きることを喜び、この方に仕え、いろいろな役割を与えられることにある。キリストにある自分を喜ぶのは、実に聖霊の働きによることなのである。
<結び> 私たちは、一体どのようにして、イエス・キリストを救い主と信じるようになったのだろうか。それぞれきっかけがあり、自ら進んで教会に足を運んだのは事実である。最初はイヤイヤだったという人も、たまにおられる。イヤイヤどころか、反発ばかりだった人もおられるに違いない。けれども、気がついたら、喜んで礼拝をささげている自分がいて、ある日、何の迷いもなく「イエスさまと信じます」と、心からの信仰に導かれたのである。私たちは、聖霊の御業としての「新生」または、「再生」が私たちの内側で起ったことを信じている。聖霊の働きによって、私たちは、「新しく生まれ変わった」のである。それは「聖霊が内に宿って下さること」であり、また「キリストが内に宿って下さること」である。その意味でも、「私たちはキリストのもの」なのである。私たちが、「永遠の命を生きる喜び」をもって生きられるのは、キリストが私の内にあって生きておられるからである。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20) この信仰に導かれるのに、聖霊なる神は、その思いのままに私たちを導き、これからの日々も喜びに満たして、万全に導いて下さるのである。その導きに従って歩ませていただきたい。
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