礼拝説教要旨(2017.09.10) 
サタンの大ウソ!
(創世記3:1-7横田俊樹師) 

 今日の箇所には、口をきく蛇が出てきますが、これはサタンとか悪魔とか呼ばれる者の事です。聖書によると、サタンははじめから人殺しであり、また偽り者、うそつきだと書いてあります(ヨハネ8:44)。今日は、人を不幸にしているサタンの大ウソについて、聖書から学びまして、逆に神様がイエス・キリストによってあきらかにしてくださった真理、人を本当の幸いに導く神さまの真理に目を向けてみたいと思います。今日の聖書の箇所には二つ、サタンの大ウソが記されています。

@「あなた方は、決して死にません。」これがまず一つ目の大ウソです。ここの前の2:16−17には、神様がちゃんと、この園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」と仰っておられました。でもサタンは、「大丈夫」と言って罪にいざないます。「大丈夫、死なないから、やってみな。」とそそのかすのです。サタンは、裁きなどないから、安心して罪を犯すように、と滅びにいざなうのです。危険ドラッグや麻薬のようなものも、多くは軽い気持ちで、一回くらいなら大丈夫、と手を出して、抜けられなくなると言います。酒酔い運転なんかも、一杯くらいなら大丈夫と言って、悲劇を作り出します。性的な罪も、大丈夫、ばれなきゃいい、とか、みんなやってるから、とか言って滅びに落ちていくようです。罪にいざなう「大丈夫」は、サタンが言っている「大丈夫」です。全然、大丈夫ではありません。聖書は、人は、自分の蒔いた種を刈り取らされる、と明確に教えています。神の裁きはあると、繰り返し警告しています。ばれなきゃいいと思っても、やがてそれがばれる日が来る。そして報いを受ける。たとえ、この世で最後までばれずに逃げおおせたとしても、最期の最期に神様がすべてを正しく裁かれる最後の審判の時を用意しておられます。裁きなんてないというサタンの大ウソに惑わされないように、肝に銘じておきたいと思います。

Aさて、次です。サタンは「あなたがたは決して死にません」と言いましたが、それではどうして食べても死なない木の実を、神様は食べるなと命じたのか、というと、それは、食べた人を神のようにする力があるから、だから食べさせないのだ、というのです。神様は自分一人がお山の大将でいたいから、人間をいつまでも神様より低い状態のままでいさせたいから、だから禁じているんだという、まるで神様が心の狭い、悪意のある方のような言いぐさです。神様は、あなたたちが神のようになって賢くならせたくないから、食べさせないんだよ、それが良いものだから、食べるなと禁じているんだよ、そんな神様の本心も知らずに、バカみたいに信頼しきってるなんて、どこまでお人よしなんだ、というところでしょうか。
 今日、世界中に蔓延して人々を惑わしているサタンの大ウソ。神様は、出来のいい優等生しか、愛さないんだよ、とか、お前みたいな汚れた人間など、神様は眼中にないのさ、とか、お前には価値がないんだよ、とか、これらはすべてサタンの大ウソです。サタンは時に周りの人間を通してそういう刷り込みをすることがあります。私には価値がない、愛されるわけがない、とか。普段意識してなくても、心の底の方でそう固く信じてしまっていることもあるかもしれません。何かのきっかけでとか、あるいは小さいころからそう言われ、扱われ続けてきたら、そう刷り込まれてしまうんですね。本当は違うのに。それはもちろん、その人が悪のではありません。幼子の真っ白なキャンパスに、そういうネガティブな絵を塗りたくられたら、その色に染まるのは当然ですから。ただ、大人になったら、そこから抜け出して新しいアイデンティティを求めていくことはできます。いつまでも、こんなサタンの大ウソに騙されていてはいけません。その突破口は、聖書にあります。私たちは、サタンの偽りの言葉ではなく、神様の御言葉である聖書に耳を傾けるべきです。サタンの偽りは、人を滅びに至らせますが、神様の御言葉である聖書は、人に真のいのちを与えるものです。

B神様がどんな方かという事は、聖書に書かれています。その聖書によると、神様は、全宇宙を造られた方であられ、そして造っただけでなくて、今も、全宇宙を隅々に至るまで治めておられるお方です。あらゆる良いものを与えてくださって人々に喜びを与えておられる方です。そして、こんなちっぽけな私たち一人一人を愛して、心を配っておられるお方です。神様のお許しなしには、雀一羽、地に落ちる事がない、いや髪の毛一筋さえ、失われることがない、とイエス様は教えてくださいました。それほどに、全知全能の神さまが、私たち一人ひとりの事を愛して、気にかけてくださっている、と。
 これは、聖書がはっきりと語っていることですから、間違いない事です。私たちが気付いていようが気付いていまいが、神様は黙々と日々、私たちのいのちを支えて、私たちが気付いていないところでも多くの危険や悪から守ってくださっているのでしょう。それをもっと感謝しないと、と思います。
 しかしまた他方、それを疑わせる出来事があるのも、また事実です。多くの悲惨な事件、事故、災害が起こっています。私たちの弱い信仰は、揺れ動きます。動揺します。時に、神様、どうして、、、と思わず口から出てくるような出来事が、現実に起こります。苦難はあります。試練はあります。そういう時にまたサタンがもっともらしい理屈をもって大ウソを吹き込みます。こういうことを許される神様はやっぱりひどい方、悪意のある方だと、神様のご愛を疑わせる声です。そこで、エバのようにサタンの声に耳を貸して、神様への信頼を捨ててしまうのか。神様に背を向けて滅びに向かって飛び出して行ってしまうのか。それとも、それでも神様を信頼し続けるのか。グッと踏みとどまって、身を低くして、「ちっぽけな私たちの頭ではなぜ、どうしてこういう事が起こるのか、知りえませんけれども、全知全能の愛なる神様がすべてを御手の中に治めておられるのですから、私の知りえない御心があると信じます。頭ではなぜ?という事が理解できませんけれども、あなたを信頼します。」という告白をお捧げするのか。おそらく実際には、神様を否定はしないけれども、積極的に信頼もできないという状態が多いかもしれません。現実は、単純ではないでしょう。しかし、そういう試練の中で唯一勝利の道は、やっぱり神様を信頼し続けることなのです。苦難を克服するには、それしかないのです。神様の御心を受け入れることができずに戦っている間は平安はありません。御心を受け入れた時に、平安が来るのです。疑いの声を退けて、十字架につけられたキリストに目を向けて、神様のご真実、神様のご愛を信じとおす事です。キリストによって、どういう状況にあっても、神様に栄光を帰して、神様を信頼し続ける事です。

C神様は、私たちがどんな時にも、神様のご愛を揺るがずに確信しているようにと、一つの客観的な証拠、確かな愛のしるしを与えてくださいました。一か所だけ、聖書を開いてみたいと思います。新約聖書の第一ヨハネ4:9-10(p469)
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 ここに神の愛がある。ここにー十字架にーこそ、神様の愛が現れている。あれはどうなんですか、これはどうなんですか、とあらぬ方向を指差すのをやめて、イエス・キリストの十字架を指差して、神様のご愛を見るのです。天におられる神様は、最愛の御子をこの私たちの住む世界に事実、送ってくださり、この現実の世界の中で、私たちに対するご愛を示されました。イエス・キリストが十字架につけられたというのは、私たちの住むこの世界の歴史の中に現れた客観的な事実です。あの十字架にかかられたキリストは、全宇宙を造られた神様のひとり子と呼ばれています。神様の最愛のひとり子です。その尊い尊いお方を、私たちの罪のために、私たちの身代りに十字架に引き渡されて、私たちの罪に対する罰をすべてキリストの上に注ぎ出された。それによって、信じるすべての者に、罪の赦しが与えられ、永遠に神様とともに住む神の国に入れて頂き、永遠のいのちを喜ぶことができるようにしてくださいました。この罪の赦しがなかったら、永遠の滅び、永遠の苦しみに投げ込まれなければなりませんでした。神様は、ご自分への信頼に疑いをさしはさんで、裏切ってしまった人間をさえも、なお、愛してくださって、回復するチャンスを与えられたのです。それは、何の犠牲も払わずにできることではなく、御子の犠牲を伴うものでした。神様は、罪の問題をうやむやにして、なかったことにする、というのではなく、神様は正しい方ですから、罪は罪として処罰しなければいけません。神様の裁きはあるのです。正義は貫かれるのです。裁きとは、正義を行う事なのです。1ミリほどもごまかすことなく、正義は行われるのです。キリストの十字架は、神さまが必ず罪を裁かれるという、神様の正義をも表しているのです。罪や悪をいつまでも放っておくことは決してないのです。
 
 しかし他方、神様は、私たち人間の事をも本当に愛しておられて、絶対に失いたくないと思われた。いい子でいる間だけ、戒めを守っている間だけ、愛するという条件付きの愛ではなくて、たとえ戒めを破ってしまって、神様を裏切り、サタンの偽りに耳を貸してしまった、死に値する罪を犯してしまっても、なお、その人間を失いたくない、救おうとされずにはいられない、真実な愛をもっておられる方。そこで最愛の御子を人として世にお遣わしになり、人類の代表として、一身に人類の罪を背負って十字架上で正義の要求する罰を受けることにされたのです。だから、ここに、神様の愛が示された、と聖書は言っているのです。神さまのご愛は、十字架にあらわされました。そこにあらわされた神様のご愛は、命がけの愛です。かりそめや戯れではないのです。絶対にあなたを失いたくないという、強い意志のあらわれです。サタンは、エバを騙して、禁断の木の実を食べさせることに成功して、喜んだでしょうが、それは、サタンの意に反して、結果的には、より大きな、より深い、神様のご愛を表すことになったのです。
 
 神さまは、私たちがまったき信頼を寄せて、日々、歩むことをどれほど喜ばれる事でしょう。それはまた、私たちに喜びと力を与えてくれるでしょう。苦難の時にそのことを信じるのはとても難しいですが、それでもやはりそんな中でも神様への信頼こそが、苦難を乗り越える力を与えてくれるでしょう。時に、私たちが試練に置かれる時、あるいは何か、不安、恐れがある時、先が見えない時、神様への信頼を問われます。そういうときにも、聖書の御言葉に立って、十字架のキリストを指さして、神様のご愛、ご真実を、認め、信じる方を選び取るなら、私たちは神様をひどい方とするサタンの大ウソをまっこうから否定する事になります。神様は真実な方、私たちを愛しておられる方という真理をあきらかにすることになります。それは、簡単なことではないかもしれません。しかし、忍耐と、聖霊の力によって、必ず圧倒的な勝利を得る時が来ます。全知全能の父なる神様を信頼する道を選び取って、その道にとどまり、神様とともにゴールを目指して、歩み続けましょう。