『序 ただ一つの慰め 第一主日
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、
体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主
イエス・キリストのものであることです。
この方は御自身の尊い血をもって
わたしのすべての罪を完全に償い、
悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ
髪の毛一本も落ちることができないほどに、
わたしを守ってくださいます。
実に万事がわたしの救いのために働くのです。
そうしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、
今から後この方のために生きることを心から喜び
またそれにふさわしくなるように、
整えてくださるのです。』
「ハイデルベルグ信仰問答」は、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問い、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と、そのように答える問答によって始まる。この世で、当時の人々は、生きるか死ぬか、厳しい状況に迫られながら、本当の慰めはどこにあるのか、自分は確かな拠り所を得て生きているのだろうか、真剣に問の答えを求めつつ生きていた。答えの続きは、その慰めの根拠を明らかにするものである。
1、「私たちは、自分の体も魂も、私たちの救い主イエス・キリストのものです。」これは、最早、私は私のものではなく、キリストのものであること、キリストの所有とされた自分を、心の底から叫ぶ告白である。どのようにして、私たちはキリストのものとされるのか。「この方は御自分の尊い血をもってわたしたちのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしたちを解放してくださいました。」この短い言葉に、福音の根幹、すなわち、キリストの十字架によって、私たち人間の罪の赦しの道が、確実に、完全に開かれたことが述べられている。私たち、主イエスを私の救い主キリストと信じる者のために、キリストは十字架で肉を裂き、血を流すことによって、私たちの一切の罪を完全に償って下さり、そのようにして、私たちを悪魔のあらゆる力から解き放ち、ご自分のものとして下さったのである。私たちがキリストのものであることの幸いは、全く計り知れず、私たちの思いの及ばない程の、神の愛によるものなのである。(18〜19節)
2、「・・・尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い」と言われていることを、どれだけ理解できているだろうか、と自問させられる。全く聖く、全く正しい神の前に、私たち人間は背いた存在である。その背きの罪は、私たち人間を、有りとあらゆる悪に進ませ、私たち一人一人もまた、例外なく罪ある者である。人間の罪の事実は深刻である。ところが、私たちの罪意識や罪認識には、個人差がある。自分の罪や悪に敏感な人もあれば、反対に鈍感な人もいる。けれども、罪から離れたいと願う人が良い人で、罪に溺れる人が悪い人と言う訳ではない。真の神の前に、全ての人は罪ある存在である。「『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。』」(ローマ3:10-12)そして、罪に対する神の裁きは、神の正しさ、神の義に基づいて、全ての人に及ぶ。この裁きを免れるのは、キリストの十字架の血潮が、私のために流されたことを、信仰をもって受け止める人だけである。キリストはその人をご自分の血によって、買い取って下さった。その人は、最早、決してキリストの下から離されることはない。キリストのものとなるのは、それ程に確かなことなのである。(ローマ3:23-26)
3、「悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」と言われていることも、事実として受け止めるべき、大事な視点である。キリストのものとされた私たちは、最早、悪魔の支配から、完全に解き放たれている事実である。悪魔(サタン)の誘惑は、この地上にいる限り、なお執拗に迫ることがあっても、私たちはキリストのものであるので、私の力で立ち向かうのではない。キリストご自身が、代わりに立ち向かって下さる・・・という程に、私たちは解放され、守られているのである。でも、現実はそんなに単純でない・・・と言いたくなる。誘惑に負け、罪を繰り返す自分がいる・・・と、良心がうずく。毎日毎日、いや、一刻一刻、悔い改めの祈りをささげないではいられない、そんな自分を思い知らされる。けれども、そのような事実は、悪魔に支配されていた時には、全く有り得ないことである。その時は、罪を罪と思わず、罪を繰り返していたのであって、今は、悪魔の力から解放された者として、キリストにあって、罪と戦うことを、また誘惑に立ち向かうことをさせていただいているのである。「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」(ヨハネ第一3:6)悪魔の力から、全く解き放たれていること、この幸いを見失うことのないように。
<結び> 私たちは、自分以外の誰かのために、身代わりとなることができるものなのだろうか。物のやり取り、金銭のやり取りなど、いろいろな場合を考えて、できることとできないことがあると分かる。自分の持っている物を誰かに貸すのは、それ程難しくはない。お金を立て替えるのは、金額によりけり・・・であろう。自分が損をしない程度に・・・。まして命を懸けてするようなことは、ほとんどないと言ってよい。けれども、神が私たちを滅びから救うために、神は独り子の命を、その代価とされたのである。中途半端な救いをもたらすのでなく、完全な救いをもたらすために、これ以上ないもの、御子の尊い血が流されたのである。罪ある私たちが、全き救いをいただけるように、十字架の上で死なれ、信じる私たちを救いに入れて下さった。私たちはキリストのものであることを、心から感謝して、ここにこそ、ただ一つの慰めがあることを証しさせていただきたい。(ヨハネ第一4:9-10)
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