礼拝説教要旨(2017.09.10)
ただ一つの慰めは何ですか
(ローマ 14:7〜9))

『序 ただ一つの慰め  第一主日 
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 
答  わたしがわたし自身のものではなく、
    体も魂も、生きるにも死ぬにも、
    わたしの真実な救い主
    イエス・キリストのものであることです。
   この方は御自身の尊い血をもって
    わたしのすべての罪を完全に償い、
    悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
   また、天にいますわたしの父の御旨でなければ
    髪の毛一本も落ちることができないほどに、
    わたしを守ってくださいます。
    実に万事がわたしの救いのために働くのです。
   そうしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、
    今から後この方のために生きることを心から喜び
    またそれにふさわしくなるように、
    整えてくださるのです。』

 今朝から、上記の問答で始まる「ハイデルベルグ信仰問答」を学びたい。今年は「宗教改革500年」とのこと、10月31日の「宗教改革記念日」に向け、幾つかのイベントがあったり、プロテスタント宗教改革のことを思うことが増えるに違いない。以前から、いつかこれを学ぶ機会をと願っていたのが、この時に導かれたものと感謝したい。

1、私たちは既に「ウェストミンスター信仰告白」を学び、「大小教理問答」を学んでいる。日本長老教会として、公に信仰基準として覚えているからである。1517年10月31日以降、プロテスタント教会が歩んだ中で、ルター派の教会があり、カルバン派の教会があり、それ以外の教会も増える中で、聖書に従う信仰が養われるために、多くの「信仰問答書(カテキズム)」が生み出されていた。それらは、聖書に正しく聞き従う信仰を養おうとして、それぞれ真剣に取り組んでいたからに他ならない。そうした宗教改革運動が進む時、いくつかの対立がまだあった頃、ドイツのハイデルベルクの町で、1563年に出版されたのが「ハイデルベルグ信仰問答」である。「ウェストミンスター信仰基準」に先立つこと約80年、出版後、ヨーロッパのほとんどの言語に翻訳され、17世紀に入って、急速に世界の改革派諸教会へと広まった。底に流れる福音の理解の中心は、問答1にある「ただ一つの慰め」こそが、全てのクリスチャンが依り頼むべきところ、全ての人に備えられた、真の慰め、本当の喜びまた希望であると、述べられていることにある。

2、主の日の公の礼拝ごとに、129の問答を一年で終えるようになっているが、私たちはもう少しかかる気がする。倦まず、弛まずに学び続けられるよう祈って、この学びを始めたい。第1の問は、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答は、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。・・・」既に信仰を持っている人々に、聖書が教えていることを、正しく知り、正しく信じて、信仰者として生きるために、何を、どのように信じているのかを確認させるための問答である。「・・・あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問われて、答を覚えて、正確に答える・・・ということがあったに違いない。「ウェストミンスター小教理問答」では、問1「人のおもな目的は、何ですか。」答「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」である。これを覚えて、答えるのは大事としても、実際にどのように生きているのか、そちらが、はるかに大事と思えてならない。そう理解すると、ただ一つの慰めについての問は、「あなたには、生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰め、決して消えゆくことのない、本当の慰めがありますか」と問うものと理解できる。夢や希望を見出せず、辛い日常にあっても、あなたは、確かな慰めを得ていますか、確かな拠り所を・・・と。

3、「生きるにも死ぬにも」と、冒頭で問われる。私たちは日頃、余りにも生きることに集中していて、死ぬことには、なるべく目を向けないでいよう、考えないようにしよう・・・としているかもしれない。けれども、私たちは、どんなに長生きをしたとしても、必ず、この世を去る日が来る。いつまで生きて、いつ頃に死を迎えることができるのか、自分で決められる人はいない。元気な人ほど、死とは無関係にしていられるのも事実であるが、健康に不安があると、その人は、日頃から死を意識する傾向があると言われる。そして、そのような人こそ、神に生かされていることを感謝し、感謝の日々を生きる意欲を得ている事実がある。私たちは、生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰めを持っているだろうか。それを与えられていることを、はっきり知って、感謝の日々を生きているのだろうか。自分の心の内に、問い直すよう求められる。そして、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と、心の底から言えるよう導かれること、それがこの問答の中心である。私が私自身のものでないとは、一瞬、不安のよぎることかもしれない。けれども、よく考えてみると、私たちは、自分の心も身体も、自分ではコントロールできない事実のあることを知らされる。「体も魂も」そして「生きるにも死ぬにも」、私たちはキリストのものであること、私のために十字架で死なれた救い主、イエス・キリストのものであることにこそ、本当の慰め、ただ一つの慰め、拠り所があると気づいて、心から告白できる者とならせていただきたい。(7〜9節)

<結び> けれども、私が慰めに気づくかどうかとか、慰めを得ているとかではなく、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、・・・キリストのものであることです」と言い切っていることに、しっかり目を向けなければならない。これが肝心である。何故なら、私たちの地上の日々には、時に非情とも思うことが襲い、目で見て、手で確かめることのできる「幸い」や「喜び」、また「慰め」がたちまちに消え去ることがあるからである。私たちが、自分が自分のものではなく、イエス・キリストのものであることこそ、大いなる慰め、ただ一つの慰めであり、本当の拠り所となる。

 私自身がそのことを、心から信じたのはいつだったか、振り返ることを導かれた。中学2年生の夏、大阪で信仰告白の祈りをささげた日の夜、胸が熱くなる思いで、これからの人生は、主のために生きます・・・と祈った。いつもいつも覚えているわけでなく、久しぶりに思い出した。これまでは自分勝手に生きて来ましたが、これからはイエス様に従います・・・と祈った。私たちはキリストのもの。生きるにも死ぬにも、体も魂もキリストのもの。私の救いのために十字架で死なれ、よみがえられたキリストがおられることに勝るものはないと、告白し、また証しし続けたい。問答1の後半は、確かな慰めの根拠について触れている。三位一体の神が、私をしっかり捉えて支えていて下さるから・・・と。そのことは次回以降とする。(※ローマ8:31-34)