一節に、
小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
と、黙示録八章は始まります。第七の封印が解かれ、「さあ、何が起るか」と一瞬の緊張の後、静けさの中に取り残されます。この場面を、一人、幻の中で目撃することを許されたヨハネにとっては、自分の息づかいだけが聞こえる、この半時の静けさであったことでしょう。
この静寂は二節への備えでした。静まり返った中で、二節、
それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
新たに七人の御使いが登場し、七つのラッパが各々に渡されていきます。この光景は、先の七章での大賛美の後でした。御使いたちの賛美、そして数え切れぬ聖徒たちの賛美のあとでラッパが渡される。そこだけを見たら、半時の休憩の後、御使いにラッパを与えて、即席の楽隊が編成され、今度は楽器付きでの第二礼拝が始まるのか、と想像したりできますが、それは恐ろしく検討違いとなります。ラッパの響きは、神の怒りの下る「合図」となるのですから。
ヨハネはまだラッパが吹き鳴らされるのを聞いていないし、ラッパが手渡されるのを見ただけですが、七章で語られた、三節のことばを思い出していたかも知れませんね。
私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。
このことばを聞いた後で、印を押された人々の数を確かめていますので、すでに「害を与える」準備は整っているのです。そこにラッパの登場です。天において、さばきの備えが進められているのですが、三節、
また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
半時ばかりの沈黙を破るのは、ラッパの響きではなく、聖徒たちの祈りが先となります。香炉の煙は聖徒の祈りに芳ばしい香りを添えるものです。それが「たくさん」用意されるとは、祈りを聞いて下さるお方が、喜びをもって受入れて下さろうとしておられるとなりましょう。
また、「すべての聖徒の祈り」とありますので、これを特定の殉教者とか、迫害の中にある聖徒たちの祈りに限定する必要もないと思われます。七節からの地上に繰り広げられる災いの光景と結びつけて、聖徒の祈りに答えて神が裁きを下されると解釈し、聖徒の祈りの内容は、六章十節と同じ「血の復讐を求めるもの」と見る人がおります。しかし、そのように読むべき理由は、この三節、四節には見当たりません。むしろ、すべての聖徒たちが集まり祈る礼拝が背景にあると見るのはどうでしょう。七章の十節のように「救いは御座にある私たちの神にあり、小羊にある」と信じて、祈りと礼拝が地上で捧げられています。地上の教会の熱心な礼拝者の祈りであるからこそ、御前に香の薫りに包まれて届けられているのです。四節、
香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
地上に身を置くヨハネにとっても、他の信者たちにとっても、この光景から祈りが神の御前に届いていることが確信となれば良いのではありませんか。この祈りの内容を裁きの光景に結びつける必要はありませんし、「復讐を」との訴えに対する主のお返事は「もうしばらくの間、休んでいなさい」でした。あえて、再び訴えている光景を想像させる必要もないでしょう。
五節に、
それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
祈りの静かで厳粛な場面が一変致します。どの位の間、ヨハネは、聖徒たちの祈りが、香の煙につつまれて、御前に捧げられるのをながめていたことでしょう。もし、一つ一つの祈りの声を、その内容を聞き取ることができたとしたら、頷きつつ、時には「アーメン」と自分の声を重ねて、時の経つのも忘れるほどだったかも知れません。
「それから」iと、何か合図があってのことでしょうか。「御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた」のです。
先ほどまで、聖徒たちの祈りに添える香の煙を焚くために用いられていた香炉が、今度は、祭壇の火を一杯につめ込まれて、一気に地上に投げつけらるのです。この様子を想像するのは難しくないでしょう。
「大地に投げつけられ、烈しくぶつかり、転がる。勿論、飛び散る火の粉。ちょうど枯れ草の上に、真赤な炭火をばら散いたかのように、一面に散らばった火によって、至る所がくすぶり出す。すぐに炎を上げて燃え上がる。辺り一面が火の海と化し、もうもうと煙が立ち上る。」
同じ香炉が、今度は、地上の世界に始まろうとしている裁きの合図か何かのように、天から大地に投げつけられる。まるで、さばきの「火」を詰め込まれて怒りの道具とされているかに見えます。六節、
すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
四章五節にも、良く似た光景がありました。
御座から、いなずまと声と雷鳴が起こった。
とあります。でも、場面は、「御座から」であり、天上の光景でした。こちらは、「地震」の四つ目が加わっての地上の有様です。そう見ると、「すると、雷鳴と声といなずまと地震がおこった」を、この香炉が投げ落とされ、大地に激突する際のイメージと重ねたくもなります。まるで隕石にように、真赤な巨大なかたまりが激しくぶつかる!その轟音を雷鳴に、その衝撃の火花をいなずまに、さらに衝撃は地震に、と繋がりますね。これで、準備は整ってしまうのです。あとは、六節のごとくラッパが吹き鳴らされるばかりとなりました。
六節、
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
いよいよ始まるのです。災いの開始を告げる合図のラッパがひとつ一つ吹きならされていく。角笛のような穏やかな柔らかな響きとは違うでしょう。ラッパです。トランペットのような金属音を想像します。静けさを引き裂くかのようにラッパが吹きならされてゆく。七人が次々と、です。
新しい年を迎えて吹き鳴らされるラッパの響きは、喜びと希望に繋がります。新しい王を迎えての即位を告げるラッパの響きなら、心躍るものです。これは神のさばきを告げるラッパでした。神への反逆に満ちた世界へのさばきの御手が下る、さばきの合図、警告のラッパの響きです。
その瞬間を告げるラッパを吹きならす御使いたちの厳粛で、緊張した様子を思い描けるでしょう。一吹きごとに地上の世界は、災いに見舞われてゆくのですから。
第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
黙示録を読み進めて、ここまで来てしまいました。先に進みたくない気がします。当のヨハネは、どんな気持ちだったことでしょう。この光景を、幻の中とは言えリアルに見ていたのですから。そう言うなら、黙示録の最初の読者たちの心の中も気になりました。一体どんな気持ちで、例えばラオデキアの教会の面々は、これを読んでいたのでしょうか。そう考えたら、もうひとつ。神様は、読者の私たちにどんな気持を期待しておられるのでしょう。どんな読み方を期待しておられるのでしょう、と問い直しても同じですが。
主のさばきの御手が下されるのですが、ここに見るのは、自然界に向けられた災いです。第四のラッパまでは、全て、この自然界を襲うものです。第一のラッパで、血の混じった雹と火が振りそそぎ地上の植物界が災いを被る!第二のラッパでは、火の燃えている大きな山のようなものが海に投げ込まれ、海の三分の一が血となり、海のいのちあるものの三分の一が死に、舟の三分の一にも被害が及ぶ。第三のラッパでは、大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源を汚染する。水は苦くなり、多くの人が死ぬ。第四のラッパでは、闇が天をかけめぐり、天体の三分の一を暗くし、昼も三分の一が光を失うのです。
真っ先に、主がみ怒りをもって打ちたたかれたのは、この大地です。神ご自身が造られた自然界そのものなのです。自然保護!環境保全!絶滅寸前の動植物の保護!そんな声を耳にしますし、その大切さは弁えているつもりです。しかし、この日この時には、神によって造られた世界、大自然が、あっけなく神のみ怒りを受けて、裁きの道具と化していくのを見ます。それまでは、人間の生活の場となり、実りをもたらし、緑や紅葉をさえ楽しませていた自然界ですけど、不敬虔な罪に汚れた人間たちへの災いを真っ先に受けるものとされています。
いや、自然界が先だからと言って、人間たちも決してうかうかとしてはいられないのです。確かに降りかかる災いは、その激しさを序々に増して来ていたのですから。先に七つの封印が解かれた時には、災いの被害者は四分の一止まり(六章八節)でした。四分の三は生き残れた。それが、ここでの七つのラッパでは、被害者は三分の一となる。確かに三分の二はなお無事です。でも、比率は変わっている。そして、次の七つの鉢の時には、もはやこのような制限はなくなります。
そう思うと、今こうして三分の一の災いに裁きを制限しておられるのは、神ご自身の憐れみ故と受け取れませんか。一挙に全てを滅ぼしてしまうことも、確かにおできになるお方ですし、そのためなら十分すぎる理由を、怒りの子たる人間たちは持っています。最初に四分の一。そして、ここでも一気に半分とはならずに三分の一までと、そのさばきの御手を制限しておられるのです。「怒るに遅い神」とは、なお、この時に及んでも真実な神のお姿です。続く八節より十二節をまとめてお読みします。
第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
いざ、その時を迎え、ラッパが吹きならされ、さばきが下されたのは、この自然界に対してでして、人間たちに直接に、ではないのです。
きびしい裁きの鞭を、直ちに人間の頭上にふるうことなく、これを外して下さる。叩くのは大地です。ムチを振るわれる主の御手の動きの中に、なお憐れみを見ます。でも、いつまでも、私たちの体をかすめて、うなり来るムチが大地を打ちつづけるわけでは決してないのです。警告ともなる災いは、ひと時でした。それ故、自然界に下されるこの災いに、神の怒りの「しるし」を悟る者は幸いなのです。なお、神の側の忍耐の時なのですから。
ところで、その同じ地上には、額に印を押された神のしもべたちがまだいるのです。七章からの光景を続けて読めば、そうなります。彼らはどうなるのでしょう。あのモーセの時はどうでしたか。出エジプト記の九章の二十四、二十五節にはこうありました。
雹がふり、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかったきわめて激しいものであった。雹がエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。ただイスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。
と。でも、わかりませんね。地上に起る、この自然界の痛みを主のしもべたちも共に味わうことになっても、不思議はありません。
「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ八章二十二節)とは、パウロの言葉でした。苦しみ、共に産みの苦しみを、と言うなら、その苦しみが最も激しさを増す時がこんな形で訪れるのかもしれません。でも、それはやがての喜びに変わるはずの産みの苦しみでもあるのです。
神のしもべたちの救いは、どんな中でも確かなものなのですから。むしろ、そのことにも目を向けて備えるべきでしょう。滅びゆく世界と運命を伴にすることは決してないのです。しかし、もしかすると、この造られた被造世界の苦難を共に味わうことになるかもしれないのです。
神のさばきの鞭は、いやそのムチ音は、人間を避けてまわりに響いている。このような状況は、今の生き方にも、そっくりあてはまりませんか。自然界の一部、私たちにとってのこの体が病に苦しむ、生命がおびやかされる様々なものの中に置かれています。神のムチは、この体にふりおろされる!でも魂ははずされている!この魂の救いのために、時には警告のムチを、神はふるわれることもあるでしょう。でも、私たちの救いはこの朽ちゆく体を超えて主の永遠の世界に用意されているのです。やがての甦りの体を得ることによってです。神と小羊とに救いあり!魂の救いをこそ得ているのですから、何をか恐れん、です。十三節に、
また私は見た。一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「災いが来る。災いが、災いが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
これまで見てきた災いは自然界に向けられたものでした。しかし、第五の災いは違っていて、地に住む人々に襲いかかるのです。丁度、出エジプトの出来事に似ています。闇がエジプトの地を覆った第九番目の災いの次の、最後となる十番目は、初子の死でした。ついに、神の審きが人間たちに直接向けられていくことになります。しかし、この警告があっての上でした。
中天を飛びかう鷲が叫ぶ光景をヨハネは見るのです。空高く、誰の目にも見える形です。大声での叫び、誰一人としてその声を聞き漏らすこともない。すべての者への警告となる「災いが来る。災いが、災いが来る」との言葉が聞かれます。
「災い」という言葉が三度繰り返されるのも、たぶんに、残された3つのラッパに対応するものでしょう。すでにこの世界は光を失いつつある。薄暗さの中、見上げる中天に「災いが来る」と叫びつつ飛びかう一羽の鷲。
子どもの頃に体験した日食を思い出しました。太陽を月が隠したその瞬間、あたり一面がすっと暗くなり、ひんやりと肌寒さを覚えたものでした。太陽が三分の一の光を失う。その異常さに人々は不安を抱く。天を見上げる。そこに、「災いが来る」と叫び、飛びかう鷲の姿を見る。ヨハネが目撃した光景は、まさに審きの警告にふさわしいものでしょう。鳩ではない。猛禽類の鷲。空高く舞い上がる姿。地上の獲物を見る鋭い視力。まさに地に住む人々を襲う、その災いを告げるメッセンジャーとしてはぴったりです。
ところで、幻の中の鷲はいったい何なのか。そんな問いも心に浮かぶでしょう。御使いのことを指すのではないか、というのが大方の共通した理解でした。もっともロバでさえ口をきくことがあったのですから、鷲にオウムのように繰返し一つの言葉を語らせたら、それもまた面白いとは思います。が、どちらにせよ、特別に警告を伝えるべき使者が神のみもとから遣わされてくることになります。いよいよの時を迎えての、最後の使者となるものです。
「災いが来る。地に住む人々に」の「地に住む人々」との言い方は六章十節にもありました。「血の復讐」の相手ですから、キリスト者を迫害し、神と教会とに敵対するものをさす言葉として使われていると取れます。本格化して行く裁きが下されるのはこの不信仰者としての「地に住む人々」の上に、と言う事になるでしょう。
そう見ると、この第四のラッパまでは、十一節にあるように、「水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ」とは言え、まだまだ、災いの数に入らない程度のものだったことになります。
「災いが来る」その日を迎える前に、神は、太陽、月、星を打ち、光を失わせてまで、地上に住むものに、災いの日の近いことを知らせようとしておられることになります。ご自分の創造の御業であるこの世界を、輝く太陽を、月を、星を、ただいたずらに保ち続けるのではなくて、必要ならば、これを破壊してまで、地に住むものへの警告として用いられるのです。自ら造られた世界に、手をかけてです。そんな神ご自身の御旨が何なのか、に気付くべきでしょう。
確かにこのお方は、罪人の私たちが一人でも滅びることをお望みにならぬお方なのです。
第二ペテロ三章九節と十節、
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
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