@わずか五つのパンと二匹の干し魚で、五千人以上もの大群衆を養われたという前代未聞の大奇跡を、イエス様が行われた直後でした。ヨハネ伝によると、この時群集は感激のあまり、イエス様をイスラエルを救ってくれる王として担ぎ上げようとしました。イスラエルを異教徒ローマ帝国から解放し、イスラエルに黄金時代を来たらせる王、神様が昔々から約束しておられた、あのメシアに違いないと大騒ぎになったのです。その盛り上がりに煽られて、弟子たちまでも興奮して、鼻息荒く、すっかりその気になってしまったのでしょう。イエス様が「強いて、弟子たちを船に乗り込ませた」(22節)という書き方は、弟子たちはその場を去りたくない、いやだ、とダダをこねていたということでしょう。いよいよ、俺たちも一花咲かせる時が来たか、イエス様が王、自分は右大臣、左大臣、何々大臣、入閣は確実、と妄想していたのでしょうか。いったい、あなた方はイエス様に何を求めているのですか?と問われそうです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタ 16:24)とのイエス様の御声を、心に刻んでおきたいと思います。
A真夜中のガリラヤ湖上。船を操るのはお手の物の漁師さんたちが何人もいましたが、強い向かい風のため、漕いでも漕いでも一向に進まず、難儀していました。私たちにも、時にどうにも手も足も出ない逆境や試練に遭遇することがあるかもしれません。そんな時、私たちもイエス様のお姿が見えず、途方に暮れることがあるかもしれません。しかし、イエス様は私たちのことをお忘れになることは決してありません。たとえ私たちのほうはイエス様を忘れてしまうことがあったとしても、イエス様のほうはお忘れになることはありません。この時も、イエス様は真夜中にもかかわらず、暴風吹き荒れる湖をものともせずに、助けに来てくれました。
ところが、弟子たちにはそれがイエス様だとはわからず、幽霊だ!と思ってしまい、ますます取り乱してしまったと言います。イエス様は時に、意外な方法で助けに来て下さるのかもしれません。それを私たちの側は知らずに、逆におびえてしまったり。しかしそんな私たちに、イエス様は声をかけて下さいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(27節、欄外注)。
Bところが!話はここで終わりませんでした。例によって、わけのわからないことを言い出したのがペテロです。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになって下さい。」何のためにこんなことを?ただやってみたくなった?子供みたいなペテロです。しかしイエス様は、こんなペテロに愛想をつかさずに、付き合って下さいました。「来なさい。」と待望の主のお言葉がでました。よし!とばかりに、まっすぐにイエス様を見て、一歩を踏み出したペテロ。ところが、周りの風を見てこわくなった途端、沈みかけて、「主よ。助けて下さい!」と叫びました。
せっかく歩みだしたのに、沈んだのは、なぜか。イエス様に力がないから?イエス様の言葉が偽りだったから?違います。そうではなくて、ペテロが風を見て、怖くなったから。怖くなったから、です。恐れというのは、いっぺんに信仰の火を消してしまうものです。それゆえサタンも、私たちの心に恐れを抱かせようと、あの手この手で不安材料に私たちの目を向けさせようとするでしょう。ペテロは、イエス様を見ている間は、沈まなかったのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)という勧めを、肝に銘じさせられます。
Cしかし、話はここで終わりません。この時、おぼれかけたペテロはどうなったかというと、イエス様がすぐさま手を差し伸べて下さいました。やっぱりイエス様でした。 |
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